髪を切りましょうと、彼は言った。

「ずっと気になってたんですよね」
後ろ髪を撫でられた。
「これ、自分で切ったでしょ?」
「分かりますか?やっぱり俺下手ですよね」
「うん。下手」
クスクスと笑う。
ベランダに新聞紙をひいてパンツ一丁で座る。
チョキチョキと躊躇いなく軽快な音を立てながら切っていく。
「・・・なんでカカシさんは上手なんですか?」
「まだ切り終えてもないのに褒められてもねぇ」
クスクスとまた笑う。
まだ鏡を見たわけではないが素人がそんな手際が良い筈ない。
「多分イルカと同じ理由だと思うよ」
「・・・散髪代が勿体ないから?」
「そっ」
にんまりと笑う。
「オレはイルカみたいに長髪が似合わないからね。何度も切ってたらそれなりに上達したの。最初ごろはね、失敗ばっかりで箒みたいってよく言われてた」
「箒・・・」
彼の髪色と想像出来て思わず吹き出した。
「俺は結べばわからないからいっつも真っ直ぐに切ってたんですけど、真っ直ぐって難しいですよね。いっつも斜めになって。それでもまぁ結べばわからないかと思ってんですけと、女の子は目敏いですね。すぐ分かってしまって」
「女?」
鋭い目線に施設の子ですと答えると不機嫌そうな顔をした。
「イルカは施設ばかりだ」
「人生の大半を過ごしましたからね」
「施設に入る前は?」
「それが、あまり記憶になくて・・・」
靄がかかったようにぼんやりとしか思い出せない。両親のことも住んでいた家も引き取られたはずの親戚のことも。
大人たちにはショックが大きかったせいだと言われた。
心が壊れないように、自己防衛したのだと。
そのおかげかぼんやり寂しいが、喪失感しかない。だから一人でもやっていけたのか。
「・・・そう」
静かな声で頷いた。
沈黙が続く。
さっきまであんなに機嫌がよかったのに、難しい人だ。
「・・・明日から、忙しくなるんですよ」
「仕事ですか?」
そう言うとふっと寂しそうに笑った。
その顔に、なんとなくあの婚約者のことを思った。
「面倒なことがあってね。それが終わったら長い休みをもらえそうなんです。そしたらどこか二人で行きましょう。何処がいいですか?ハワイ?ニューヨーク?ローマでもいいですね」
「国内がいいですよ。俺温泉好きだから」
「貴方って本当欲がないですね」
ふふっと柔らかく笑う。少しは機嫌が直ったようだ。
「温泉なら箱根?熱海?なんか新婚旅行みたいだねぇ」
「あはは。いいですね。俺行ったことないです」
「じゃあ熱海かな」
ハサミを止め、髪を払った。パラパラと落ちていく。
鏡がないので手で確認するととても軽くなった。梳いてくれたのだろう、いつも一直線に切る俺とは大違いだ。
「ん。上手くできた」
「本当ですか?早く鏡をみたいなぁ」
「男前になってるよ」
クスッと笑われて首筋に唇を落とした。
ちゅっと音がする。
「髪を切るの上手くて良かった。他の奴にこんな無防備なイルカを触らせたくない」
「カカシさん・・・」
「顔を見なくてもムラムラするよ。本当エロい」
ちゅっちゅっと唇が下に降りていく。ブルっと寒さではなく震える。
目を閉じる。
こうすれば何も見えない。
感じるのは彼の熱だけ。
それだけを頼りに生きていく。
何も考えたくない。
何も、何も。
「だから、しばらく外に行けないけど、我慢してね」
そう言われ、首に巻かれた赤い首輪を触る。
GPSが埋め込まれ、外すと警報音が鳴り響くこれを、彼はあの日から着けた。
服も薄着なのを身に付けさせ、靴を捨て、警備を厳重にし外に逃亡しないように徹底した。
まるで嫉妬のような独占欲のような。
そうしなくては気がすまないような裏切りをした。だから喜んで全て従った。
どこかで。
どこかで、それが執着と呼べるものであればいいと願いながら。
「・・・風呂行きましょう。洗ってあげる」
「はい」
促されて立ち上がる。
切った髪が風で舞い上がり、飛んでいく。
俺の一部だったアレらは、どこに行くのだろう。
俺もあんな風に気持ちまで飛んでいけたらいいのに。
「そう言えば」
ぼんやりと飛んでいく髪を見ながら呟く。
「昔、猫を飼っていた気がします」
唐突にそんなことを思い出した。だがやはりぼんやりとしていてどんな猫だったか、どういう経緯でウチにきたのか思い出せない。
「猫・・・」
彼は無表情に呟いた。

あの猫は、どこに行ってしまったのだろう。



忙しくなると宣言通り、カカシさんは帰らない日が続いた。
帰ってきても疲れているのか倒れるように眠り、静かに出て行く。
おかげでろくに話もできない。
彼と話ができなければできないほど嫌な方へ嫌な方へ思考がむかう。
もうこのまま彼は帰ってこないのではないのか。
俺はここに見捨てられるのではないか。
どうか違うと言ってほしい。
そんな俺の不安など考えられないよう強く強く抱いてほしい。
全てが嘘でもかまわないから。


ガチャと玄関から音がした。
慌てて飛んでいくと少しくたびれた様子のカカシさんが立っていた。
「おかえりなさい」
「・・・はい」
ぎゅっと抱きしめてくれると彼の熱や匂いに包まれる。ふぅと安堵の息を吐く。
まだ、俺の元に帰ってきてくれる。
それだけでこんなにも幸福だ。
「・・・はたけさん」
彼の後ろから声がし、慌てて体を離す。
まさか人がいるとは思わなかった。
見るとヤマトさんが呆れた顔して立っていた。
恥ずかしさに顔を赤くして俯くとカカシさんが隠すように俺を引き寄せた。
「ヤマト。邪魔するなよ」
「分かります、分かりますけど今は時間ないですから」
急かすように彼の背を押す。カカシさんは恨めしそうな目をしたが、事実なのかチッと舌打ちして書斎に入った。
二人きりになり気まずくなる。
何か喋ろうと思い、話題を探す。
「あっ、あの!お、おでんどうでしたか?」
「え?あぁ、とても美味しかったです。イルカさん料理上手ですね」
「いえ・・・」
口に合わなかったらどうしようとおもっていたが、食べてもらえたのだと思うと安心した。
「一人でこっそり食べてたら、はたけさんに妨害されまして。おかげで大根と卵しか食べれなかったです」
あの人心狭いですよね苦笑された。
「そうですよね。いくらでも作るのに」
「いえ、そういうわけじゃ・・・」
困ったように笑った。
「あークソッ。ネクタイ何処だ」
礼服姿のカカシさんがバタバタと家中を探し回る。
「ネクタイなんかなくても良いか」
「ダメですよ!礼儀にうるさい人しか居ないんですから」
そういうとチッと盛大に舌打ちすると再度探し回る。
「礼服・・・、何かあるんですか?」
礼服と言えば冠婚葬祭で着る服だ。こんなに急に、何があるのだろうか。
儀式?葬式?それとも。
それとも。
「聞いていないんですか?」
心底不思議そうな顔をする。
聞いていない?
聞いていないよ。何も。何も。

何を聞けというのだ。

「今日畑さんの結婚式なんですよ」
さらりと、いとも簡単に、そう言った。

けっこんしき・・・?
平仮名六文字が頭を回る。
けっこん、結婚、結婚式・・・。
あぁ、そうか。
婚約者なのだから。
いずれは結婚するんだもんな。
「結婚式じゃない。親族に挨拶して籍を入れるだけだ」
顔を歪め心底面倒くさそうに言う。
「それを世の中では結婚式って言うのですよ」
「別にしたくてするわけじゃない。四代目がうるさいからするだけだ。本当なら籍を入れるだけでいいはずだったのに」
「そりゃ実の娘ですから挨拶ぐらい当たり前ですよ。寧ろ大々的に式するはずなのに畑さんがごねたからなくなったんでしょう。畑さん前から思ってたんですが無神経すぎますよ。それよりネクタイありましたか?」
「ない。ヤマト、お前の貸せ」
「ボクにノーネクタイで出ろと!」
二人の声が遠くに聞こえる。俺は何も考えられず立ち尽くす。
結婚、したら俺はどうなるのだろう。
このままここで暮らすのか?
カカシさんと、彼女と産まれてくる子どもと四人で?
それともカカシさんが通ってくるのか。
彼女に触れた手で俺に触れるのか?
子どもを撫でた手で俺を抱くのか?
そんな、まるで愛人のような生活を彼は望んでいるのだろうか。
分からない。
分かりたくもなかった。
「イルカ」
名前を呼ばれて顔をあげる。
「しばらく帰れない。また連絡するまでオレのメシはいらないから」
「はい」
何も考えないように。
決して取り乱したりなどしないように。


彼らが出ていくとぼんやりと外を眺めた。
目をつぶり今後の生活を想像してみる。
紅さんは、家事できるのかな。
子育てに忙しいから家事は俺がするのかな?
お手伝いさんのように掃除洗濯料理をして、子育ても手伝って。
カカシさんが帰ってきたら三人で迎えるのかな。
いや、俺は邪魔だから引っ込まないと。
カカシさんと紅さんと子どもでリビングで和気藹々している間、俺は自室で膝を抱えて寝るんだ。
幸せな家族を見ながら、そこに入れないと遠くから嘆くんだ。

俺は、家族じゃないんだから。

いいじゃないか。それを望んだのは俺自身だ。
俺の家族は、施設だけなのだから。



ピンポーンとチャイムが鳴った。
インターホンを出ると宅配屋だった。
「お届け物です。タンスなのでお部屋まで運びましょうか?」
いつもエントランスに置いてもらい取りに行っていたが、タンスみたいな大きな物は運べない。
「お願いします」
扉を開けて部屋に招いた。
タンス。
もしかして嫁入り道具だろうか。
やはりここに引っ越してくるのだろうか。
無意識に、手が震えた。
嫌だなんて言えないけど。
そんなこと言える立場ではないけど。
辛くて悲しくて、胸が張り裂けそうだった。

玄関前のチャイムが鳴り、扉を開けた。
大きな荷物を3人がかりで運んできた。
人一人入れそうな大きな荷物だった。
「ご苦労様です」
とりあえずリビングに運んでもらおうか。
案内しようと後ろを振り返ると、腕を取られた。
えっ?と思った瞬間口に布を押し付けられた。
「ーーーっ!!」
「早く、その首輪取れ!」
「この中に押し込めろ」
男たちが口々叫ぶ。
「これが婚約者なのか?」
「黒髪らしいからな。だが、男だぜ」
「でもこの部屋は確かにアイツの部屋だからコイツだろう」
婚約者と言う言葉にハッとなる。
もしかして紅さんと間違えているのか?
それなら良かった。
俺が身代わりになれるのなら、良かった。
これでカカシさんは俺のことを切り捨てやすくなった。何にもしなくても邪魔者は消えれる。俺もこれで彼に恩が返せる。
ゆっくりと意識が遠のく。
バランスを崩し、床に叩きつけられる。
頭から強い鈍痛がする。
痛い、いたい。
だが、その痛みは、初めてではなかった。
(あれ・・・・・・?)
ぼんやりと、何か見えた。
遠くから罵声とともに何かに押し込められる。
首から首輪が外され、警報音が鳴り響いた。


銀色の毛がキラキラと光る。
『捨て猫じゃないんだから』
猫・・・?
そうだ、アレは確か銀色の毛をして。
寒そうに震えていた。


ソレを初めて見つけたのは橋の下だった。
ギロっと鋭い目をしていたのに体はガタガタと震え、ポツンと座っていた。
咄嗟に拾わなきゃ、と思った。
拾わなきゃ、死んじゃう。
嫌がるソレを抱きしめて家に帰る。服を剥ぎ、風呂に入れると綺麗な銀色の毛が現れた。
ソレは警戒しつつも疲労からか思うように動けずなすがままにされていた。
ただ、目だけが鋭く、冷たかった。
お腹が空いていると思い大好きなカップラーメンをあげた。目の前でお湯を入れ、わたすと、恐る恐る食べ始めた。最初はゆっくり、段々と無我夢中で食べていった。
一気に三つ食べると落ち着いたのか目が柔らかくなっていった。
一緒にリビングで何もすることなく座っているとウトウトとし始めた。眠い?と聞くと必死に頭を横に振るからそれ以上言わず、暖房をガンガンにつけ、毛布を取ってきて一緒にくるまり、それでも寒くないように力いっぱい抱きしめた。
だって。
だって、彼は震えていた。
寒い寒いと震えていたのだ。

夕日が差し込み、目を覚ます。どうやら一緒に寝ていたみたいだ。時計を見るともうすぐ仕事から親が帰ってくる時間だ。
隣にいるソレはまだ寝ていた。
初めてじっくり見るが、とても綺麗だった。
銀色の毛も白い肌も、部屋の熱で赤くなった頬も。
じぃと見つめているとゆっくりと彼の目が開いた。ボンヤリとした目の焦点が合うと、俺から距離をとり身構えた。
「腹減ってない?」
ソレはピクリとも動かなかった。
「眠くない?」
ソレは動かない。
「どっか痛いところない?」
動かない。
「寒く、ない?」
そう聞くと瞳が一瞬緩んだ。
そして小さな声で、寒いと呟いた。
「おいで。俺も寒いよ」
そう言って毛布を広げると、もぞもぞと入ってきた。嬉しくてぎゅっと抱きしめる。
「あったかいね」
ソレの毛に顔を埋める。フワフワと柔らかかった。
「ねぇ、どうしてあそこにいたの?お家は?」
ソレは無表情で首を横に振った。
「お家、ないの・・・?」
コクンと頷く。その顔からはなんの感情も読み取れない。それがなんだか切なかった。
「ここに住まない?俺父ちゃんと母ちゃんに頼むから」
そう言うと心底不思議そうな顔をした。
言ってる意味がわからないと言うかのように。
「行くとこないんだろ。それならここにいればいいよ!ね、決まり。そうしよう!」
そう言うと彼は小さく笑った。
「捨て猫じゃないんだから」
そうだ。
ソレは猫じゃない。
俺とそんなに変わらないぐらいの年の人間だった。
でも猫がよくて人間がいけない訳はない、はずだ。
「いいの!もう決めたの!」
笑ってくれたのが嬉しくて俺もクスクスと笑った。
「俺イルカっていうんだ。君は?」
「・・・・・・カカシ」
カカシ。
ヘンテコな名前だ。
「カカシ。今日から俺がカカシの兄ちゃんだ!」
ぎゅーっと力強く抱きしめる。
オレの方が年上だと思うけど、と呆れた声で呟かれたが、彼は小さく笑った気がした。


「ねぇ、父ちゃん。コイツ飼っていいでしょ?」
「あのなー、イルカ。捨て猫じゃないんだから、そんな簡単にいくか」
帰ってきた両親に真っ先に言うと、カカシと同じことを言われて何となく面白くなくて膨れる。
猫ならいいのか?猫も人間も同じだろ?
「カカシくん。本当に親や親戚とかいないの?」
「いません。ここ半年一人で転々としながら生きてきました」
そう言うと両親は悲痛な顔をした。俺は意味がわからずカカシを見るとまたあの無表情だったので、ぎゅっと手を握ってあげた。
寒いからあんな顔をするんだ。
寒くないように俺が温めてあげないと。
「カカシくんは、どうしたい?」
カカシはちらっと俺を見た。
「俺の弟になるよな!」
「どう見ても、弟はイルカだろ」
またカカシと同じことを言われて膨れる。
カカシはぼんやりしてるから、俺が守ってあげないといけないの!そう叫ぶとカカシは小さく笑った。
そして父ちゃんの方を真剣な眼差しで見た。
「何でも、します。イルカのそばにいれるなら」
初めて名前を呼ばれた。その声は強く、確かだった。
カカシも傍にいたいと思ってくれているのだと嬉しくなり、ぎゅっと強く手を握ると小さく一回握り返してくれた。
「分かった」
父ちゃんが大きく頷いた。
「きちんと、手続きをしよう」
「本当!?」
母ちゃんを見ると困ったように笑っていたが、異論はなかった。
やったー!と跳ね回る。
これからはカカシがいる。俺は兄になるのだ。
「家族になろう」
父ちゃんがカカシに手を差し伸べた。カカシもおずおずとその手を握った。
かぞく、と小さく呟き、嬉しそうに笑った。


その日の晩は母ちゃん特製カレーを食べた。
カカシはカップラーメン三つも食べたのにカレーも三杯おかわりした。俺も負けじとおかわりして、お腹がパンパンになった。
二人でベッドに入る。興奮して中々寝付けず、カカシと色んな話をした。してもしても話は尽きず、ウトウトしかけているカカシを見てようやく話をやめた。
ぎゅっと抱きつく。
「寒くない?」
「・・・寒い」
そう言うからぎゅうぎゅう抱きしめる。
せまくて窮屈なベッドなのに、なんだかとても心地良くてカカシを抱きしめながらぐっすりと寝た。


翌朝、両親は仕事に向かい俺はカカシと一緒にいた。一緒にご飯を食べ、一緒に手をつないでたくさん話をした。
「近くに美味しいパン屋があるんだよ」
「へぇ」
「そこのね、カレーパンが美味いの。今度一緒に食べような」
「うん」
「学校はね、でっかいジャングルジムがあるんだ。俺登るの一番早いんだぜ」
「へぇ」
ベラベラと俺ばかり喋っていたがカカシは嬉しそうに頷いてくれた。
「カカシは俺の弟だからな。イジメられたらちゃんと言えよ!」
「イルカの方が年下だろ」
「むぅ。じゃあカカシ兄ちゃんな!」
そう言うとにっこり笑った。
「俺ずっと兄弟ほしかったんだ。でも母ちゃん病気しちゃってダメなんだって」
「オレも、オレが産まれたとき母親が死んだんだ」
「そうなんだ。寂しいね」
そういうと、困ったように笑った。
「・・・そうだね」
「でも大丈夫!今日から俺の母ちゃんがカカシの母ちゃんだから」
「母ちゃん・・・」
「で、俺の父ちゃんがカカシの父ちゃん」
「父ちゃん・・・」
「俺たちは家族なんだ」
昨日父ちゃんが言った台詞を言う。
家族。
父ちゃんと母ちゃんと俺とカカシ。四人で家族なんだ。
「いっぱい色んな所へ行こう」
「うん」
「色んな話して食べて」
「うん」
「ずっとずっと一緒にいよう」
こうやって、手をつないで。
もう二度と。
二度と寒さで震えないように。




「・・・・・・遅いなぁ」
時刻は21時を過ぎた。
いつもならとっくに帰宅して夕食を食べて風呂に入っている時間なのに。
不安そうにカカシがこちらを見た。大丈夫だよと手を強く握った。
「お腹減ったね。カップラーメンでも食べよっか」
昨日とは違うカップラーメンを取り出し、二人で食べる。それでも帰ってこないので風呂に入った。時刻は23時になっていた。いくらなんでもおかしい。遅くなるときはあったが、必ず連絡があった。
不安だったが、俺が不安がればカカシがもっと不安になる。大丈夫、大丈夫と繰り返し言いながら手を強くつなぐ。
その時電子音がなった。電話だ。
ホッとしながら急いで出る。
こんな遅くまで連絡しないなんて、うっかり屋さんだ。もう!と怒って早く帰ってきてと言おう。お腹すいた、ケーキ買ってきてと強請ろう。
しかし電話から聞こえる声は知らない人だった。
病院?事故?
今俺とカカシしかいないよ。
お祖母ちゃんもお祖父ちゃんもいないよ。
早く来て?だから、誰もいないんだよ。
もうちょっとしたら。
もうちょっとしたら、父ちゃんと母ちゃんが帰ってくるからーーー・・・・・・。


なんでみんな泣いてるの?
黒い服着てどうしたの?
キミエオバサン?誰?知らないよ。
今日から家族?違うよ、俺の家族は父ちゃんと母ちゃんと俺とカカシだよ。
ねぇ、どこ行くの?なんで家から出るの?
カカシ。
ねぇ、カカシはどこ?
カカシは寒がりなんだ。
俺が傍にいないと寒い寒いと震えるんだ。
俺が手を握っていてやらないと寒くて震えるんだ。
ねぇ、カカシはどこ?
寒くない?
俺は。
俺は、寒いよ。


俺たちは、家族なのに。
ずっとずっと一緒だって、言ったのに。



目が覚めるとぽろぽろと涙が溢れた。
どうして忘れていたのだろう。
何よりも誰よりも大事だったはずなのに。
カカシ。
再会してから一度もそんな素振りなど見せなかったが、彼は覚えているのだろうか。
だから、助けてくれたのだろうか。
無意識に施設を彼の身代わりをしていた。
何をしても助けてあげたかった。
だってもう二度と。
もう二度と、失いたくない、家族なんだ。


目を開けると高い天井が見えた。
頭が痛かったが、耐えられないほどではなかった。
その痛みで自分に起こったことを思い出す。
そうだ、俺、紅さんと間違えて人質に取られたんだ。
体を起こすと豪華な布団に寝かされ、辺りは広く豪華な和室が広がっていたが勿論見覚えなどない。
ここはどこだろう、というのは愚問だろうが、人質ってこんないい待遇だっけ・・・?イメージでは地下牢に拘束されている、感じだが。
部屋の向こうから話し声とともに足音が聞こえた。思わず身構える。
「人違いってどういうことだ!」
「ど、どうやら本物は式場に行ってるみたいでして」
「当たり前だろっ!なんで男なんかさらってくるんだ」
「で、ですがあいつの家にいたんで」
「妾ぐらいいくらでもいておかしくねーだろ」
バカ野郎と罵る。
どうやらあっさりとバレたらしい。当たり前か。女と男の区別ぐらいつく。
妾。
なんとも陳腐な響きだ。
妾、愛人、情人・・・。
そういう立場なのだろう。
彼が一度も呼ばなかっただけで。
「どうするんだよ」
「いっそのこと妾を人質にして」
「妾と本妻を交換するのか!?有り得ないだろ!」
バキッと鈍い音がした。
殴られたのだろうか。人事なのにブルッと震えた。
「でも、ミズキの話だとかなりのお気に入りで」
思いがけない名前に驚く。
そうか、こことミズキは繋がっていたのか。
「あいつはな、若から五億の物件奪って、その功績を認められて組長の娘と結婚するんだ。そうまでして結婚したかった女をいくらお気に入りの妾のためでも手放すはずねーだろ」
五億の物件。
まさか、施設のこと、なのだろうか。
違う、あれは、俺のために。
俺のために、してくれたんだ。
五億を、俺のため?
『個人が5億なんて肩代わりできるはずないだろ』
ミズキの言葉が胸に響く。
個人は個人でも、俺ではなく紅さんなら。
紅さんのためなら、肩代わりできるだろう。
(俺、馬鹿だ・・・)
どこかで彼が俺のこと特別に想ってくれている気がしてた。いやそう思いたかった。
施設が。
施設を買い取ってくれたことだけが、彼の俺に対する想いの象徴だったのに。
それすら、紅さんのためだったなんて。
俺はそれに付随したオマケみたいなものだったのだ。
勝手について来て、なんでも言うことを聞く妾だったんだ。
俺が何もしなくても、施設は無事だったんだ。
今更思い出した記憶が心に響く。
騙されたはずなのに、彼のことを思うと愛おしさが溢れてどうしようもない。
なんで、彼のことを忘れてしまったのだろう。
忘れなければ、もっと早く会えれば。
彼は俺の傍にいてくれたのに。
もう何もない。
彼が俺を想ってくれる証拠が、何もない。
ポロッと涙が溢れた。
今まで一度も流さなかった、涙。
それがどんどん溢れて止まらない。
もう、本当に何もないんだ。


「若っ!」
ドタドタと足音と共に一層辺りが騒がしくなったと思うと襖が開き、 部屋に入ってきたのは袴姿の髭面の大男だった。俺を連れてきた奴らではなかった。
ギロっと睨まれて少し離れたところに座った。
布団をギュッと掴む。少し手が震えていた。
「あ、の・・・」
「そんな身構えんな。悪いな、部下が勘違いして連れてきたみたいで。頭打ったみたいだが大丈夫か?」
心配されているみたいで、何だか不思議な気分だ。はいと頷くとニカッと笑った。
「俺は猿飛アスマだ。海野さん」
「なんで俺の名前・・・」
「カカシから話は聞いたことあるからな」
まさかカカシさんの名前が出てくるとは思わず思考が停止した。
なんで、彼の知り合いが紅さんを誘拐しようとしたのだろう。だって彼女は婚約者なのに。
「って言っても組が違うがな。俺は猿飛組、あいつは波風組だ。まぁ組同士では仲はよくねぇけどな。ヤツとは個人的に付き合いがあるんだ」
「はぁ・・・」
「カカシのヤツあんまり喋るヤローじゃねーけど、お前さんのことはよく話してたぜ」
なんて話してたのだろうか。
騙しやすいバカな男だと笑っていたのだろうか。
「悪いな、ちょっと忙しくて俺は出かけるが部下がしっかり送るから」
巻き込んだのに世話できなくてすまんと謝られた。
送る。あの部屋に帰るのだろうか。
そして、結婚生活を送るあの二人を眺めなければいけないのだろうか。
「いえ・・・」
そんなことできない。
帰りたくなどない。
俺のために施設を取り戻してくれたわけではないのなら、俺があそこにいる意味などないはずだ。
「もう、あそこには帰るつもりはありません」
どこか遠くへ行こう。
もう二度と彼と会うことなどないぐらい遠くに。
もう守るものもない自分には未練もなくどこへでも行ける。
そしてもう二度と誰にも心を許さず、カカシさんの幸せを願って生きよう。
「・・・めんどくせぇ」
ぽりぽりと頭をかいた。
「よく分からんが、怪我させた詫びだ。どこへでも連れていくし、行くとこないならここにしばらくいてもいいぞ」
ぶっきらぼうの言い方のわりには内容は親切だ。
見かけによらず優しい人だ。
若と呼ばれていたので、おそらく次期組長なのに怖いのは顔だけで、優しく気遣ってくれる。
甘えてみようかな。
ここで少し働いて、その金で遠くへ行こう。自暴自棄になってどこかへ行こうとしても金もなにもない。あの部屋から何か持っていく気にもなれない。
せっかくの縁だ。甘えてみようか。
「あの、・・・・・・しばらくここに置いて頂けませんか」
「分かった。部下たちに言っておく。まぁしばらくはゆっくりしてな」
そう言いながら部屋から出た途端ドンッと大きな音が聞こえた。
「なんだぁ!?」
驚きながらも俺を庇うように前に立った。
一瞬カカシさんと見たヤクザ映画の一場面を思い出す。
あれは確か敵対してる組がなだれ込み、銃の撃ち合いになった。そして組長とその側近が殺された。
まさか巻き込まれて死ぬのか・・・。
ゾッとした。
向こうから激しい言い合いが聞こえる。
「お前はここにいろっ!」
アスマさんは緊迫した様子でそう叫ぶと音のする方向へ向かおうとした瞬間。
「アースマ~~っ!!」
鬼の形相した男女が猛スピードでこちらに向かってきた。
「ひぃ!!」
俺は悲鳴があげ、アスマさんは体を硬直させていた。
動けない俺たちに向かってその二人はどんどん近づく。
「この機におよんで浮気なんていい度胸ねぇ」
「てめぇオレにババァ押し付けてイルカを取るつもりか!」
「誰がババァよ!」
バシッと叩かれてようやく二人がカカシさんと紅さんだと分かった。
とくに紅さんの顔が、とてもあの美しい人と同一人物とは思えなかった。すごい形相でアスマさんに詰め寄っている。
「イルカ!」
カカシさんは泣きそうな顔で俺を抱きしめた。
やめろよ。
そんな顔で、大事そうに俺を抱きしめるな。
勘違いするだろ。
「無事でよかった。攫われたって聞いたときは心臓が止まるかと思った」
「カカシ、さん・・・」
カカシさんの体が僅かに震えていた。
「また失うなんて、耐えられない・・・っ」
その言葉がじんわりと体に染み渡る。
泣きたい。
わあわあ泣きついて、忘れていたことを詫び、好きだと叫びたい。
そしてこれからずっと俺と、俺だけの傍にいてほしいと願いたい。
ぎゅっと彼の服を掴む。
嫌だよ、嫌だ。
カカシさんがいない世界なんか嫌だ。
「カカシ」
アスマさんの声が聞こえて、ハッとなる。
俺何考えてるんだ。
状況を見ろよ。
傍には結婚した紅さんもいるのに。
思わず彼から距離を取る。
一瞬傷ついた顔をしたが、フッとアスマさんの方を見た。
「悪いがこのまま行くぜ」
「いいのか?」
「さぁな。が、これ以上待たすわけにもいかねーだろ」
そう言いながら紅さんの手をそっと握った。
「妊婦が無理するんじゃねーよ」
「無理させてんのはアンタでしょ」
ふふっと妖艶に微笑んだ。
ちげーねぇとアスマさんも困ったように笑う。
何とも言えない雰囲気を二人は放ち、状況についていけない。
アスマさんは袴姿だし、紅さんは白無垢だ。
まるで合わせたかのようにぴったりだった。
というか、結婚式は?
なんで二人揃ってここにいるのか?
「海野さん、ここにいたきゃいくらでもいればいいさ」
「はぁ!?」
カカシさんが素っ頓狂な声をした。
「なんでイルカがここにいなきゃいけないんだ。お前、まさか本当にイルカに」
「お前は煩い」
「ちょっと待て、おいっ!」
「またね、イルカさん」
二人手を取り合って出て行った。
クソっと悪態つくと、ギロッとこちらを向いた。
「何があった?」
怒っているのか困っているのかよく分からない表情をしている。
それを聞きたいのは俺の方だ。
「カ、カカシさんこそ何してるんですか?」
「オレの用事は終わった」
「結婚されるんでしょ?」
「だから終わったって」
結婚式が終わったのだろうか、ならば何でこんなところにいる。紅さんと手と手をとって行くのはカカシさんじゃないのか。
今更、何も言えない。
俺の好意も過去の記憶も彼の足枷にしかならない。
分かっている。
ここで、彼に負担にならないよう別れを告げるべきた。
わかっているのに。
想いが、溢れそうだ。
「ここにしばらく置いてもらうつもりです」
貴方の傍で俺ではない誰かに微笑む貴方を見たくないから。
「もう、会いたくありません・・・」
ポロッと涙がこぼれた。
止めようと拭っても拭っても溢れ出てゴシゴシと乱暴に拭う。
このまま目が蕩けてしまえばいいのに。
彼への想いとともに流れて消えてしまえばいい。
「イルカ・・・」
ぎゅっと抱きしめられる。
彼の熱に感触に吐息に、彼との思い出が蘇り、叫びそうになる。
いつもこうして抱きしめてくれた。
大好きな感覚に狂いそうになる。
「やめてください、やめ・・・っ!」
離れるようにメチャメチャに暴れる。
そんな優しさいらない。
俺を選んでくれない優しさなんていらない。

「寒い・・・」

ポツリと小さな声で呟いた。
寒い寒いと。
「イルカがいないと、寒くて死ぬ・・・」
カタカタと、寒そうに震えていた。

温めてあげなきゃ、死んじゃう。

十数年ぶりの感覚に、無意識に抱きしめ返した。
彼の震えは止まらない。
ぎゅうぎゅう抱きしめ背中を撫でた。
大丈夫、大丈夫と。


手を繋いだまま、車に乗りマンションに戻る。
どちらも喋ることなく、時折ぎゅっと強く握る。まるで相手の存在を確かめるかのように。
部屋に入ると手をひかれるままソファーに座らされた。
顔を上げると不安そうな顔でこちらを見ている。
それが幼い頃の彼とかぶり、抱きしめたい衝動に駆られる。
もう彼は無力な一人ぼっちの少年ではないのに。
「イルカ・・・」
見上げる彼はどこか不安げだった。
「どうしたら、イルカは逃げない?オレの傍にいてくれる?」
それは、俺の台詞だ。
俺は、どうしたらいいですか?
そう聞きたかった。
彼は何を望んでいるのだろう。
家政婦?手軽な性処理。
それは結婚してまでも欲するものなのだろうか。
「イルカがどう思おうが、・・・この先手放すつもりないから」
なんて残酷な言葉だろう。
強い束縛のような強い願い。なのにその強さが嬉しいと全身を駆け巡る。それは決して俺の想いとは違うのに。
そんなに言うならカカシさんをくれよ。
アンタの全部くれたら、俺も全部差し出すのに。
アンタは、一部だって俺にはくれないくせに。
ポロッと涙が溢れた。
あぁ今日はだめだ。涙が止まらない。
「どうして泣くの?」
悲しいからだよ。
悲しくて悲しくて胸が張り裂けそうだからだよ。
「そんなに、オレといるのは嫌?」
「ちがっ」
違う。そうじゃない。
「結婚するから」
俺じゃない誰かと永遠を誓うから。
「子どもも産まれて、俺は邪魔になるから・・・っ」
彼が違う人と愛し合う姿を見続ける、なんて。
そんな惨めな思いしたくない。
「結婚しなければ、傍にいてくれる?」
手をぎゅっと握った。
「子どもが産まれなければ、一生離れていかない?」
コクンと頷く。
そうあれば、どれだけいいか。
もう、何もかも手遅れなのに。
「・・・・・・・・・そう」
カカシさんが立ち上がった。
あぁ、これで本当に終わりなのだ。俺の願いを聞き、きっと面倒くさいと思われた。
さっさと捨ててくれ。
そしたら一人で泣けるのだから。
「じゃあ、ずっといれますね」
「・・・・・・は?」
ポカンとする俺を見ながらカカシさんはにっこりと笑った。


「偽装、結婚・・・?」
「ええ。アスマが紅を孕ませてね、お互い敵対する組長の子どもだから結婚するわけにいかなくて、でも未婚の子どもにするわけにもいけなくて。まぁ体のいい身代わりですよ。別にオレは戸籍なんか興味ないし」
さらっと今まで悩んでいたことを言われて、なんだか都合良すぎてついていけない。
「でも施設は・・・」
紅さんと結婚するために勝ち取ったのではないのか。
「あぁ、施設をね、最初アスマが取って、オレが身代わりやる代わりに譲ってもらったんですよ。じゃなきゃこんな面倒くさいことしませんよ」
「・・・」
紅さんと結婚するためじゃなく、施設を手に入れるために紅さんと結婚するつもりだったのか。
「でも、それこそ結婚式しなくて大丈夫なんですか?」
先ほどのやりとりを思い出す。つまり身代わりを立てたのにも関わらず、アスマさんが行った。
「土壇場になって押し切ろうとしたのでしょう。本人がそう言うのならどうでもいいですよ」
あの手と手をとって真っ直ぐと見ていたのはそれなりの覚悟だったのか。
二人で堂々と生きていく決意だったのか。
「はは・・・」
なら、俺は手を伸ばしていいのだろうか。
あなたを愛していると叫んでもいいのだろうか。
「なんで、言ってくれなかったんですか・・・っ」
言ってくれれば、こんなツライ目にも合わなかったのに。
そう言うと困ったように頭をかいた。
「・・・・・・イルカが気にするとは思ってなかったから」
結婚しても環境が変わるわけでもないしとボソボソと答える。
気にするとは思っていない、だと。
思わず彼を睨む。
例え恋愛感情がなくても、結婚すると聞くとそれなりに身構えるだろう。どうしたらそんな考えになるんだ。俺がどれだけ苦しんだと思ってるんだ。
「イ、イルカ・・・」
押さえきれない怒りを露にされて、慌てている。困ったように眉を下げ、こちらの様子を伺う仕草はまるで捨て犬のようだった。
その姿に、絆された。
言わなかったのは俺も一緒か。
もう少し、彼に本音をいえば良かったのかもしれない。
全部施設のため、ひいては俺のためにしてくれたのだ。
そう思うと愛おしさが溢れてくる。
ふっと自然に笑みになる。
「イルカ・・・?」
「カカシさん。カカシさんはどうして俺のこと助けてくれたんですか?」
「何?いきなり」
「昔のことがあったから、ですか」
そう言うと目を開き、固まった。
口がなわなわと動き、途端くしゃっと顔を顰めた。
「イルカ、記憶が」
「はい、何となくですが思い出しました」
頷き、彼の腕を掴んだ。
「カカシ」
彼の名前を呼ぶ。
「カカシ、忘れてごめん」
一番大事なことだったのに。
大事な家族だったのに。
俺は忘れてしまっていた。
「懐かしい。ようやく、呼んでくれた・・・」
フッと笑った。顔は笑っているのにどこか寂しそうで泣き出しそうだった。
ぎゅっと胸が痛かった。
「あのあと、オレは何でもした。アイツらからイルカを取り戻すためなら手段を選ばなかった。気づいたら今の組にいて、それなりの地位を得てようやくって時にアイツらの名前がリストにあがった。イルカから取り上げた保険金で事業を始めたらしいが失敗し多額の借金をしたらしい。オレは喜々として行ったよ。これを盾にイルカを取り戻せるって。そしたらアイツら、イルカを施設に捨ててた・・・っ」
吐き捨てるように、まるで血を吐くように苦しげにそう言った。
覚えていない。そのときの生活も、施設に行った経緯も。だが、施設での生活は確かに楽しかった。だからかそんなに恨みなどない。
「アイツらは、今は金を生むだけの生活をしてますよ。もう二度と会うことはないでしょう」
ゾッとするほど冷たい声だった。
「すぐ施設に行きました。ようやく会えると狂おしいほど胸は高鳴ってた。イルカは園庭で子どもたちと遊んでた。とても幸せそうに」
思い出すように遠くを見つめて言った。
「幸せそうに、笑ってた。オレはあれから一度も笑えなかったのに」
「カカシ・・・」
「オレは怖くなった。ようやく自分の立場を自覚した。オレはヤクザだった。胸を張って名乗り出れるほど立派な人間なんかじゃない。どうしようと立ち竦んでいたら、イルカが気づいてこっちに来てくれた。嬉しかった。あの大好きな笑みを浮かべながら」
泣きそうな顔でこちらを見た。
「『どちら様ですか?』って」
あぁ、その場面が目に浮かびそうだ。
どうして忘れてしまったのだろう。
その時の彼の心境は計り知れない。どれだけ絶望したのだろう。
ようやく。
ようやく会えたのに。
「嘘をついているなんて思えないほど無垢な笑みだったので、何となく記憶喪失なのだと思いました。あの日、オレから引き離されないよう抵抗していたイルカをアイツらは無理矢理引き離し、頭を打ちつけたから」
あぁ、だから今回再度頭を打ちつけて記憶が戻ったのかもしれませんねと小さく笑った。
「昔の話をしても良かったかもしれません。でもイルカは就職も決まっていて、今更オレと会えたところで幸せになんかできないと思って帰りました」
「そんな・・・っ」
「いや、ウソです。本当は怖かった。ヤクザだと知ってイルカに軽蔑されるのが怖かった。イルカは昔から真っ直ぐで正義感に溢れていたから」
そんなことない。
カカシなら、カカシならどんな姿でも良かったのに。
「しばらく遠くから見ていました。そしたら施設がリストに上がって。施設に出入りするようになったらイルカから声をかけてくれて、嬉しかった・・・」
フッと小さく笑った。
「買収の話が出たとき、いいきっかけだと思いました。これでもっと親しくなればいい、きっとイルカは助けてほしいと言ってくると思っていたのに、何でもするって」
「だって・・・」
「そこまで思われてる施設が心底憎くなった。だから少し意地の悪いことを言ったんです。体を売れと。そしたらイルカは頷くから。本当はそんなつもりじゃなかった。オレは家族としてイルカを見ていたはずなのに、服を脱いでいくイルカに確かに欲情していた。それも抑えきれないほど強く醜く。その時ようやく気づいた。オレは最初からイルカのことを」
そこで言葉を切った。
色違いの目が熱を帯びたままこちらをみた。
その視線にドキッとした。
「性欲込みで、好きだって」
その言葉は甘く響きわたった。
好き?
カカシが、俺を・・・?
性欲込みって、家族ではなく?
そういう意味で、好き?
「す、き・・・?」
「好きだ。もう二度と手放せないぐらい」
そう言ってぎゅっと抱きしめた。
彼の熱とともに彼の言葉がじわじわと体に浸透していった。
好き。
好きだ。
「俺も、好きです」
「・・・イルカ?」
「カカシさんのこと、誰にも取られたくないぐらい、好き・・・」
言葉にして、充実感でいっぱいになる。
あぁ、ずっと。
ずっと貴方にそう言いたかったんだ。
「好き、好き、好きです。カカシさんがす」
全て言い終わらない前にカカシさんが抱きしめキスをした。
あぁ、好きだ。大好きだ。
ようやく。
ようやく言えた。貴方に言うことができた。


夢を見た。

スーツ姿のカカシが緊張した様子で玄関に立ってた。
俺は彼の隣に立ち少し笑いながらもどこか緊張していた。
「緊張してる?」
「まあね」
顔を合わさずじっと玄関見つめる。
「親不孝者って言われたらどうしよう」
「言わないよ。言わせない」
そう言ってかすかに震えている彼の手を取った。ビックリした顔でこっちを見ると、途端泣きそうな顔で縋るようにイルカと呟いた。
「大丈夫」
そう言って手を繋いだまま家に入った。
リビングで父ちゃんは新聞を見て、母ちゃんはお茶を入れてた。
「ただいま」
俺がそう言うと二人は嬉しそうにこちらを向いた。
「二人ともお帰り。最近中々来ないから心配してたのよ」
「ごめんな、仕事とかで忙しくて」
あらっと母ちゃんが嬉しそうに言った。
「何、手を繋いじゃって。いつまで経ってもあんたたちは仲良しね」
クスクスと笑い、父ちゃんも「いい歳こいて」と笑った。
ぎゅっと一度強く手を握られた。
「父さん、母さん」
カカシが真剣な表情で叫んだ。
「大事な、話があります」
「どうした、カカシ。こわい顔して」
「何かあったのか?」
心配そうに言われて、ぐっと押し黙った。そして小さく深呼吸する。
ぎゅっと強く手を握り、俺もぎゅっと強く握った。
「オレたち、付き合ってるんだ。結婚はできないけど、そういう意味でこれからもずっと一緒にいるつもりなんだ」
二人はビックリした表情で固まった。
「大事な一人息子を、奪ってすみません。拾ってくれた恩を仇で返してすみません」
そう言って深々と頭を下げた。
手を繋いでなかったら土下座でもしそうな勢いだった。
違う。俺こそカカシの一生を奪ってしまった。エリートコース一直線のカカシが結婚できないのは俺が手放さないからだ。
泣きそうな顔で「好きだ」と言った彼を、「二度とイルカの前には現れない」と叫んだ彼を捕まえて、抱きしめた。俺だって好きだと叫んだ。あの日から一度だって俺は手放さなかった。そのぐらい愛していた。
だが今日は何も言わないと事前にカカシと約束していたので、何も言わない。
だけどもし。
もし、二人が反対したら。
親子の縁を切ってでもカカシと一緒にいるつもりでいた。
「カカシ」
父ちゃんが真剣な顔で呼んだ。
ごくっとカカシが唾を飲み込んだ。
俺は祈るような気持ちで父ちゃんを見た。
カカシと繋いでいない手をぎゅっと握った。
もし。
もし、カカシを傷つけるようなことを言ったら、ぶん殴ってやる。
カカシは、俺が守ってやるんだ。
父ちゃんはコツンと軽く頭を叩いた。
「イルカは一人息子じゃねぇ。俺の息子はカカシとイルカ、二人兄弟だ」
「父ちゃん・・・」
「仲が良すぎるとは思ってたけどねぇ。まぁ二人がそれでいいなら反対しないわ」
「母ちゃん・・・」
途端隣からドタッと大きな音がした。
見ると倒れていた。
「カカシ!」
「ごめん、なんか力抜けた」
ハハッと笑いながら手を伸ばすとカカシは僅かに震えていた。顔を見るとくしゃくしゃにして泣いてた。
「よかった・・・」
手で顔を覆っても溢れ出るぐらい大泣きしていた。慰めようと彼の肩に手を置くと何だか視界がぼやけた。
「ばかやろー・・・」
気がつくと俺も涙が溢れていた。
お前みたいないい奴を反対するわけないだろ。
手で顔を覆う余裕なんかなくてカカシを抱きしめながらオイオイ泣いた。
遠くから聞きなれない音が聞こえて顔を上げると父ちゃんがすごい顔をして泣いていた。見ると母ちゃんも泣いてた。
何だよ。
結構それなりに覚悟してたのに。
男同士で気持ち悪いとか。あんたたち兄弟なのにとか。
それなのにあっさり受け止めて、泣いてくれるなんて。
なんてサイコーな家族なんだよ、ばかやろー。

一頻り泣くと、涙は収まるもので。
気恥ずかしい空気の中母ちゃんがお茶を入れてくれてみんなで飲んだ。
「これからどうするんだ?」
「今までも一緒に暮らしてるから特になにもしねーよ。金が溜まったらマンション買うかも」
「帰って来てもいいのよ?」
確かに実家と今住んでるアパートはそれほど離れていない。だが、今の生活が中々楽しいので帰る気はなかった。
「いーよ、な?」
「そうだね。一応新婚だし」
ニッコリ笑われ気恥ずかしくてバカと叩いた。
「式とかしないのか?」
「しねーよ、恥ずかしい」
そう言うと少し残念そうだった。だけどそこは譲るつもりはない。
元々受け入れにくい関係だ。親に認めてもらっただけでも万々歳だろう。
「式や届はできないけど」
そう言って徐ろにカカシは胸ポケットから箱を取り出した。
「これだけは、渡したくて」
それはペアの指輪だった。
そんなこと、聞いてなかった。
ビックリしている俺に「驚かせたかったから」と照れながら笑った。
「か、カッコつけ過ぎだろっ!大体カカシはここに来た時から海野になったんだから、カカシが嫁入りしたんだぞ!カカシは嫁なの!!」
「うん、そうだね」
カカシはニコニコと嬉しそうだった。なんかその笑顔を見ていると小さいことだと何だかどうでも良くなった。
カカシがカッコイイのは今に始まったことではないし。
「じゃあ、今日が結婚記念日ね」
母ちゃんが笑った。
「よし、焼き肉でも食うか!」
父ちゃんも笑った。
「イルカ」
カカシも笑った。
「ずっと一緒にいよう」


あぁ、なんて。
なんて幸せな夢なのだろう。





目が覚めるとまだ外は暗かった。
身じろいで時計を見ると5時だ。こんなに時間に目覚めるなんて珍しい。
「どうかしたの?」
後ろから抱きしめているカカシさんが眠そうな声で聞いた。
「何だか懐かしい夢を見た気がします」
「夢?」
「起きたら、忘れてしまいました」
でもとても幸福だった。起きた今でもその余韻に浸れるぐらい。
カカシさんはもぞもぞと動き、俺の手を握った。
「寒い?」
それは俺が言っていたセリフだった。人一倍警戒心の強い幼い彼が唯一漏らした弱音。あれは寒いというより寂しいと言いたかったのだろう。
「いいえ」
寒くなんてない。寂しくなんてない。
だって、貴方がいるのだから。
「今日、行きたいところがあるんです」
「え?」
「イルカの両親にね、報告したい」
もちろん俺の両親は死んでいる。つまり墓参りか。
「いいですね」
俺が笑うとフッとカカシが小さく笑った。
「きっと親不孝者って言われるよね」
その言葉はなんだか。
初めて聞く筈なのに。
どこかで聞いた気がしてならなかった。
「言いませんよ」
じわっと涙が溢れてきた。
「言いません。きっと、受け入れてくれます」
胸がいっぱいだった。
幼い記憶にしかない両親だったのに、なぜかそう思えて仕方なかった。
幸せそうに微笑む両親が浮かぶ。
「オレ、ヤクザなのに?」
「分かってくれます」
そう言うとぎゅっと抱きつき、自信ない・・・と弱々しく呟いた。
「足を洗う気はないんですか?」
「・・・そうだね。イルカと生きていくなら、辞めようかな。イルカの両親に申し訳ないし」
はぁと小さくため息をついた。
くるりと向きを変え、彼を抱きしめる。
「俺の両親じゃないですよ」
そんなこと言ったら。
きっと父ちゃんは真面目な顔して、叩かれる。
「俺とカカシさんの、です」
家族で過ごせたのはたった一日だったけど。
きっと、両親はそう言い切ったに違いない。
じわっと彼の顔を押し付けた胸元が熱くなった。
すすり泣く音が聞こえてポンポンと頭を撫でた。
「幸せにするから」
幸せですよ。
貴方がいるなら。
彼の頭にちゅっちゅっとキスをすると、目もとが少し赤くなったカカシさんがガバッと起きて押し倒された。
そのまま深いキスをした。
角度を変え何度も何度も。
「イルカ」
カカシさんが笑った。
とても、とても幸せそうに。

「ずっと一緒にいよう」
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