白い病棟に入りながら消毒の臭いが鼻につく。
ここはいつ来ても苦手だ。
最近増えた病院通いだが、慣れることはない。もっとも通うようになった原因だって俺以上に病院嫌いなのだからそんなものかもしれない。
何度目になるだろう、入院。
軽い検査のようなものから、生死に関わるようなものまで幾度となく繰り返される。その度に肝を冷やすこちらの身にもなってほしい。
幸い、今回は生死に関係ないといわれたが、まだ意識は戻ってない。
少し小走りになりながら、もう専用と言っていいほど見慣れた病室に入る。
そこには、意識がないと聞いていたがぼんやりと虚ろげにだがしっかりと体を起こした男が本を読んでいた。
「カカシさん…」
ほっと息を吐く。
腕につながれたチューブは痛々しげだが、酸素マスクははずれていた。
「大丈夫ですか」
笑いながら病室に踏み込んだ途端、鋭い殺気が体全身を貫いた。
思わず目を見開くと、鋭い視線のカカシさんがこちらを睨んでいる。
そんな顔、見たことなかった。
冷たい目だった。
「あんた、誰」
「は?」
「あんたなんか知らないんだけど。誰?」
思ってもみない言葉に思考が停止する。
冗談、ではないのだろうな。
あの人は冗談を言う人ではない。
怒って八つ当たりをする人ではない。
つまり、アレだ。
記憶喪失。
へんな術にかかったと聞いたがソレだったのだろう。
意外と冷静に判断し、頭を切り替える。
「失礼しました」
頭を下げると、とりあえず殺気はやめてもらえた。
「私、海野イルカと申します。はたけ上忍が意識不明と聞いたので様子を見に来させていただきました」
「ふーん」
気に入らないのか興味を持ったのか知らないが、読んでいた本を閉じた。
「地味で単純そう。あんた中忍デショ?」
グサッとくる言葉に思わず頬が引きつる。
あれ?こんなこと言う人だっけ?
警戒されているから?
「豪快で男くさく、かと言って色気はない。仕事はできなくないけど要領悪そう。お人よしの偽善者」
まるで占いのようにポンポンと言い放つ。別にはずれてないけど、むしろそのとおりだけどわざわざ声に出して言うか?嫌われたいのか?それとも思ったことを声に出してしまう病気なのか?
普段とは違う表情や言動に姿は変わらないが、なんだか別人に見えてしまう。いっそ姿が別人ならとりあえず怒鳴って諭すが、相手は怪我人だ。言いたいことは言わせておこう。きっと頭が混乱しているだけだし、苛立っているだけだ。落ち着けばきっと元に戻るはずだ。
「不愉快にさせて申し訳ありません。それではこれで」
ペコッと頭を下げ振り返らずに部屋から出る。
「アンタ、オレの何?」
出ようとした瞬間を見計らって声をかけられた。
「は?」
思わず振り返ったが相変わらず白けた顔でこちらを見ている。
「オレの知り合いにそんな無能な男いるはずないんだけど」
いちいち苛立たせる言い方をするのはわざとか。
「………………友人ですよ。もっとも思っているのは俺だけかもしれませんが」
「友人?」
ハッと鼻で笑う。
「目が覚めて一番初めに来た奴が、友人?」
蔑んだような嫌な言い方だった。
そんなはずないと分かっているような。
それを俺に言わせたいような。
そんな嫌な言い方だ。
違うといえば、違う。
だがそんなこと記憶のない人に言うべきだろうか。
俺だってそれなりの覚悟をした。
そのぐらいではないと、とても受け入れられない関係だ。
「友人です」
それだけ言うと部屋から出た。
それ以上は耐えられなかった。
病院から全力で走り、自宅へ向かう。
休みをもらっていてよかった。
とても仕事ができる気持ちではない。
息を切らしながら、冷たい風が頬をさす。
自宅へ戻り、玄関を閉めたところでへたり込んだ。
全身が震えてどうしようもなかった。
震えた指先で顔を覆う。
顔からあふれ出てくる水分は汗なのか涙なのか分からなかった。
よかったと素直に思った。
記憶がなくてよかった。
これで約束は無効だ。
俺は彼の記憶が戻るまで、もしかすると一生彼の約束を聞かなくてすむ。



今回の任務に出る直前に、カカシさんはどこか緊張しながら言った。
大事な話がある。
今回の任務が終わった聞いてほしい。
俺も緊張した顔でそれにうなずいた。
だがなんの話か安易に予想ができた。



俺はきっとこの人から捨てられる。






目が覚めるときちんと布団で寝ていた。
体も汗臭くなく、きちんとお風呂に入ったのだろう。記憶はないが、意外に人間の本能は失われてないのだろう。
どこか冷静に冷めたような感覚でいる自分が酷く恐ろしかった。
恋人が、記憶喪失で自分の記憶がないのに。
鏡で顔を見たが、勿論目なんか腫れてなく顔色も悪くない。
(昨日まではあんなに酷い顔だったのにな…)
どこかで喜んでいる自分がいた。
別れを言われなければ別れていない。
なんて詭弁だが、それでも言われない状況は救われる。
いっそ、もう二度と会えなければ。
彼のいないどこか遠くへ行けば。
彼の声を二度と聞けなくなれば。
そうすればきっとこの恋は俺の中で永遠になる。永遠にカカシさんは俺の恋人であってくれる。
気持ちの悪い思考にウンザリする。
とりあえず、見舞いに行くのはやめよう。あっちだって知らない人に来られては迷惑だろうから。




それから2,3日たつと嫌でも噂は耳に入った。
曰く、はたけカカシが女をとっかえひっかえしているらしい。
女癖が悪いのが再発し、前にもまして酷くなっているらしい。
この時、俺は彼との関係を大っぴらにしていなくて良かったと思った。周りに変に気を遣われては迷惑だから。
やけに冷静にそう思った。
それは女を連れて歩いている彼と正面から会った今でさえ、そうだった。
仲睦まじいそうに、もっと言えば公衆の面前でベタベタと暑苦しい二人を見たところで、美男美女のカップルだが、家帰ってやれとしか思わない。
頭のどこかで、彼と俺が付き合っていたカカシさんとは別人だと思っていた。だから見ても特別傷つかなかった。
だって全然違う。
カカシさんはとても優しい目をしていた。
いつもいつも優しい目で俺を見ていた。あんな冷たい目をした彼はカカシさんではない。
彼がこちらに気づき、目を細めた。相変わらず冷たい鋭い目だ。
とりあえず会釈だけでもしておくか。
頭をペコッとさげてすれ違おうと思っていたら、不意に手をとられた。
「…あの」
彼は表情を変えず、相変わらず厳しい視線でこちらを見下ろす。

「ねぇ、オレとアンタって恋人同士だってホント?」

思ってもいなかった言葉に頭が真っ白になる。
俺は、誰にも喋っていない。
外でカカシさんと会ってもそんな雰囲気を一切出さなかった。
だって、カカシさんと俺とでは立場が違う。
男だし、地位も低い。カカシさんが俺と付き合っていると知られれば、いいことなんてひとつもない。だから徹底的に隠した。
カカシさんだって、そうだったはずだ。
だが、そうは言っても忍の里だ。家まで送ってくれたこともあったし、べたべたとしたつもりはないが一緒に歩いたこともある。
それともカカシさんが誰かに喋ったのだろうか。
自慢するかのように?
ありえない。
カカシさんは決してそんな人ではなかった。
そんな風に俺の事を想ってはくれていなかった。
俺のこと愛してなどいなかった。
「違います」
俺はキッパリと、動揺を隠すかのように言った。
「そんなわけ、ないじゃないですか」
そういって口の端を上に上げた。
綺麗に笑えたと思う。
彼はフンと鼻を鳴らし、女を連れて歩きだした。
隣にいる女の黒く長い髪がふわりと風に舞うのが艶やかで、美しかった。
俺も振り向かず、歩き出す。
誰だろう。
ぼんやりと思った。
誰がそんなこと、彼に言ったのだろう。



自宅に戻ると、糸が切れたのようにへたり込んだ。
玄関だというのに、体が動かない。
このまま寝てしまおうか。
そういうわけにもいかず、這い蹲るように部屋に入る。畳の匂いが鼻につく。
まだ、部屋は綺麗だ。
カカシさんの任務終了にあわせて丁寧に掃除したから。
その必死さにフッと鼻で笑う。
掃除したって、意味もないのに。
カカシさんは一度もこの部屋に来たことはなかった。
俺もカカシさんの部屋に上がったことなどない。
付き合って一か月。短いと言えば短いのかもしれない。お互い顔を見ない日だってあった。
だが、それだけではないことを理解していた。
カカシさんが、決して上がろうとしなかったからだ。送ってくれることは何度もあったのに、部屋に上がることを勧めれば困ったように笑いながら、やんわりと断り続けた。
今更そんなことを思って泣きそうになる。
無理にでも上がってもらえばよかった。そうすればこの部屋にカカシさんとの思い出を詰めて一生出なかったのに。カカシさんの座ったところ、触ったもの、口をつけた食器。みんなみんな俺の宝物になったのに。
なんにもない、空っぽの部屋で俺は一人で泣いた。



彼とは、それから接触することは少なかった。
勿論受付をしているので、時々姿をみたが俺の列に並ぶこともなく、必然的に口をきくこともない。噂は嫌というほど耳に届いた。
任務の過酷さ、入退院の有無、そして女の話。
ついに男を抱いたと聞いたときには失笑した。よくもまぁそんなこと噂になるものだ。彼はいろんな意味で目立つから仕方ないのかもしれないが。
彼に対してこんなにも心が動かないのは、自分でも吃驚だった。全くの他人、別人だと心が割り切っていた。
俺の恋人だったカカシさんを思い出しては短い交際期間の記憶を辿る。それだけでこんなにも幸せだった。





残業を終えてアカデミーを出ると校門のところで言い争いが聞こえた。
こんなところで何だろうと足早に近づく。保護者とのトラブルでないといいのだけれど。
「うるさいなぁ。邪魔だって言ってるデショ?」
「っ、なによ!あんたから誘ったんでしょ!?」
「セックスのこと?そりゃ誘ったけど、だからってなんでアンタと付き合わなきゃいけないの?」
鬱陶しいと言いたげな酷い態度だった。
その声に、言葉に体が固まる。
「アンタなんか本気にするわけないじゃない。うるさいからもう話しかけないで」
それは。

それは、俺が言われるはずだった言葉だ。

体がガクガクと震えだし、無意識に足が動いた。
早く、早く逃げないと。
何も聞こえない、俺だけの世界に逃げないと。
あんな言葉、あの人から聞きたくない。
逃げないと逃げないと逃げないと―――。
「何してるの?」
気配もなく目の前に人が現れて大げさなほど後ずさった。
「オレが待っていたのに、逃げるなんて失礼じゃナイ?」
苛立ちを隠さないで睨みつける目にどこか冷静になった。
違う。彼じゃない。
彼はこんな目をしない。
優しい人だから。
「すみません。邪魔してはいけないかと思いまして」
冷静な声にホッとする。
彼の目が益々険しくなり、対応に困る。
「私に何か御用でしたか?はたけ上忍」
「なければあんなところ行くわけないデショ?」
そう言われて、そうかもしれないなぁとぼんやり思う。
「アンタ、本当にオレの恋人じゃないの?」
先日といい、やけに突っかかる。それって大事なことなのか?
「違うと、申し上げましたが」
「オレ自身が言ってたって聞いたんだけど」
その言葉に息を飲んだ。
まさか、カカシさんが。
そんなこと言って、カカシさんになんの利益がある?俺と付き合うなんてあの人にとってはマイナスでしかない。
「ま、さか…」
周りに言わないでくれと言ったのは俺の方だった。
カカシさんのためにならないと思ったからだ。
理由を言わなくても俺の必死さにあの人は少し微笑みながら頷いてくれた。
なのに、なぜ…。
「冗談ですよ」
「冗談、ねぇ……」
ククッと口で笑う。
「誰に聞いたのですか?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「そんなこと言われて迷惑でしょう?だから私に言いに来られたんですよね?私から訂正して回ります」
「事実なんデショ?」
「違います」
きっぱりと言う。
違う、知人だったと言い切れる。
「何で認めないの?」
「違うからです。それとも誰か私たちが付き合っている具体的な証拠があるんですか?貴方がなにか私に関するモノでも持っていましたか?」
そう言うと彼は眉を顰めて押し黙った。そうだ、なんにもない。カカシさんと繋がっていた物なんてない。
俺は何もあげなかったし、カカシさんも何か送ろうとはしなかった。だから思い出に縋れるものは、己の記憶だけだ。彼の記憶がなくなったのだから、本当に俺だけの記憶だ。
だから何とでも言える。
カカシさんに確かに愛してもらえたのだと、俺だけは思っていたかった。
「何か、あったのですか?」
「別に。アンタが恋人だったんなら悪いことしたなぁって思っただけ」
あぁ、なんだ。気にしてくれていたのか。
同じ人間なのだから、彼は言葉が悪いだけで、本当は優しい人なのかもしれない。
「お気遣いありがとうございます」
にっこり微笑んだ。意味もない素直な笑みだった。
「本当に、違うんです」
「あっそ。まぁそこまで言うなら別にいいけど」
そう言いながら頭をガシガシと掻いた。
「じゃあさ、アンタ恋人いるの?」
「……え?」
思ってもみない質問に戸惑う。脈略がなさすぎる。
困ったように見つめても彼はジッとこちらを見ているだけだ。
「いま、すが……」
それがなにかと言おうとしたところで腕を掴まれた。
「誰?」
冷たい目が突き刺さる。
「…誰でもいいじゃないですか」
「うるさいヨ。オレが聞いてるんだから早く答えて」
そう言われて押し黙る。
しまった。ついいると答えてしまった。普段ならいないと言ってるのに。
今更訂正しても疑われるだけだろう。
困ったように俯くと強く顎を取られた。
「言えない?言いたくない?」
「……」
「まぁ誰でもいいか。そいつとは別れて」
「は?」
「アンタ、今からオレ専用だから」
そう言って口づけた。
深く、力強い口づけだった。


それは。
それだけは。

カカシさんと同じで不覚にも涙が零れた。
スポンサードリンク


この広告は一定期間更新がない場合に表示されます。
コンテンツの更新が行われると非表示に戻ります。
また、プレミアムユーザーになると常に非表示になります。