「先生、イルカ先生」
名前を呼ばれて振り返ると、真っ白な世界にポツンとタヌキがいた。こちらを見上げるように顔を上げ、つぶらな瞳が俺を写した。
その愛くるしい姿は見覚えがあった。
「・・・ポン太?」
ポン太とは、数ヶ月前演習場で怪我をしていたのをイルカが保護したタヌキだった。幸い怪我は浅く三日前に完治し、山へ返した。数ヶ月とはいえ、ほとんど一緒にいたので愛着があり、再び会えたことに歓喜した。
「ポン太、お前元気でやってるか?」
近くにより頭を撫でると、嬉しそうに目を細めた気がした。
「はい。イルカ先生のおかげですっかり元気にやってます。仲間とも会えてすっかり元の生活に戻りました」
「そうか。良かった」
そう言って、一歩踏み出した。前のように抱きしめようと手を伸ばすとスルリと腕の中に入ってきた。
「ポン太」
撫でると不思議と生臭い臭いはしなかった。フサフサとした毛並みはしっかりとしており手に馴染んだ。
「イルカ先生」
ポン太が見上げる。
「先生に恩返しに来ました」
その声はどこか大人びており、何だか可笑しかった。
「何言ってるんだ。恩返しなんて」
「仲間に教えてもらいました。先生の願い、1日だけですけど叶えられます。それが恩返しです」
そう言うと俺の頭に葉っぱを置き、ストンと腕の中から出た。そして前足を掲げ、上下に揺らした。
「ポポポポーン!」
それはどこかで聞いたことのある、だけどこの場面では少しも似合わないフレーズだった。
(それ、呪文のつもりか・・・?)
そう思いながらも何だか強い力に引っ張られるようにポン太と急速に離れていく。
まだたくさん話したかったのに。
(ポン太・・・)
離れたくなくて手を伸ばすが、ポン太はポツンと座り、ジーッとこちらを見つめていただけだった。
「先生、イルカ先生」
ポン太が俺の名前を呼ぶ。

「幸せになって」



*§*―――――*§*―――――*§*



目を開けると見慣れた俺の家の天井だった。
目をパチパチさせ、ようやく先程のことは夢だったと理解した。
タヌキが喋るはずない。
そんな当たり前のことすっかり考えもしなかった不思議な夢だった。だが夢でもポン太が元気と分かって嬉しかった。
そっと隣を見る。
少し前まで隣で寝ていたポン太は、やはりいなかった。ようやく暖かくなったのに、なんだか少し寒くて起き上がる。
今日は珍しく非番だった。貴重な休日を寝て過ごしたくない。
起き上がり、布団を上げると。
ふと、違和感が襲った。
何だか腕が。

白くて細い。

慌てて下を見ると胸が小スイカ並に腫れていた。
「ぅえ、えぇぇええええ!?」
体を見渡すと華奢で色白で筋肉などほとんどない。
まるで、か弱い。

か弱い、女性のようだった。

慌ててズボンの中を見た。
ない。ないないない!
俺と25年間苦楽を共にした分身がない。代わりに、なんか違うのがある。
「か、鏡!」
もつれる足のまま洗面台に急いだ。見慣れた洗面台だ。俺の部屋には間違いない。
間違いないのに。

「嘘、だろ・・・」

鏡にうつった姿は、俺ではない、美女だった。




この美女を、見たことない、訳ではない。
テレビで流れるほどのアイドル、マリンちゃんだ。
肩までの黒髪をポニーテールにして、水着が良く似合うアイドル。明るくて、活発で、どこか抜けているけどそこもあどけなくて可愛い。だけどスタイルはグラビアアイドル顔負けのプロポーションとまさにアイドルだった。
『あー、芸能人でタイプなら、・・・この子かなぁ』
彼はテレビを見ながら、ボンヤリとそう言った。
彼の好きなタイプ。
俺には似ている要素など一つもない。
自分から好みを聞いていて、一つもかすっていないことに絶望した。告白する勇気などないくせに、勝手に失恋を思った。
「この人になりたいなぁ・・・」
彼が帰った後、テレビにうつり続ける彼女を見てひどくそう思った。
この人なら、彼にも相手にしてもらえる。隣に並んでもお似合いだ。想いが通じるかもしれない。いやそこまでいかなくてもいい。触れてもらえるかもしれない。抱きしめてもらえるかもしれない。キスしてもらえるかもしれない。

一晩の相手にしてくれるかもしれない。

彼は本気にならない、一夜限りの関係しかしないと有名だから。


『先生の願い、1日だけですけど叶えられます。それが恩返しです』
さきほどの夢が何故か鮮明に思い出された。
ああそうか、あの時。彼女になりたいとつぶやいた時ポン太は傍にいた。不思議そうに見上げていて、なんだかそれが嬉しくて思わず抱きしめた。
つぶやいた時、彼女になれるとは思ってはいなかった。ずっとなりたいとも思わなかった。
だけど。
1日だけなら。
それだけなら。
彼との関係を崩すことなく、なんのリスクもなく、一度だけでいいから彼に抱かれたいとどこかで思っていた。
(1日・・・)
時計を見る。朝の7時だった。
今から彼の家に行くのは流石に無礼だろう。昼過ぎならどうか。
それまで、どうすればいいのだろうか。
鏡を見る。美しい女性が困ったように眉を下げている。それだけでどこか守ってあげたいと思わせる妖艶な雰囲気がある。
だが。
よれよれの寝巻き代わりのジャージが全ての余韻をぶち壊しにしている。
流石に、こんな服では行けない。下着だって男物では引かれてしまう。
(カカシさん・・・)
一度でいい。抱いて欲しい。
そうすれば全て諦めてみせるからーー・・・



*§*―――――*§*―――――*§*



初めて人を好きになった。
言葉にすれば素敵に感じる。まるで人生の春だと祝ってあげたい。
だけど所詮それは他人事だった。いざ我が身に降りかかると、何が素敵だと罵りたくなる。
恋する心は人の中で一番美しい感情だと聞いたことがあったが、そう感じる人は本当の恋ではないのだろう。
荒れ狂う感情の波をどう舵を取っていけばいいのか分からない。荒かわず流れるまま身を委ねれば船は大破し藻屑になるだろう。荒かえば操作不能な舵に悪戦苦闘し、難波してしまう。
どちらを選んでも目的地などつきはしない。
それなら船など出さず遠くから目的地を眺めておけばよかったと、出航してから後悔する。
それが初恋の感情だった。
きっとこれが初恋だからだろう。何度か恋を繰り返すことによりコンパスや地図等の経験値という武器を得る。舵取りが上達し、仲間を増やせる。そうして難航しながらもきっといつか目的地に着くのだろう。
ならば、何も持っていない、技術もない俺が出来るすべは、流れに身を任せるしかなかった。そうしていつか大破するのを待つしかなかった。
それが俺の初恋。
相手の名前をはたけカカシと言う、同性だった。
最初から無茶苦茶な話だった。
彼は生きる伝説で内勤で平凡な俺では並ぶのさえ烏滸がましいのに、元生徒の関係であれよあれよと言う間にお互いの家まで行き来する仲となった。任務から帰ってくるとお土産など持ってきて俺の部屋に来たり、彼が非番の日には家に招待されたり。まるで友人のように親しくさせてもらって、それはとても幸福なことなのに。
何故か、俺は恋に落ちた。
飯を食うときぶつかった手を握りしめたいと思った。
素顔で寛ぐその顔を誰にもみせたくないと思った。
風呂上りの美しい肉体に、そのまま抱きしめて欲しいと思った。
朝家から出ていく時に「じゃあ、またね」ではなく「行ってきます」と言って欲しいと願った。
帰るときはここに、彼の帰る場所は俺のところになればいいと狂おしいほど思ってしまった。
美しくない。楽しいことなどない。苦しいだけの恋だ。
彼は女性関係に関しては派手でよく噂されていた。同性など相手にする必要もなくよく声をかけられていた。本気にならなければ、一夜限りの関係で良ければ、彼は断らないと有名だった。
「カカシさん。カカシさんはどんな方がタイプですか・・・?」
あれは酒の力を借りて思い切って聞いてみた時だった。聞いてどうなることもないのに、聞きたくて堪らなかった。
「イルカ先生」
彼はニコニコしながら答えた。
「優しくて温かで可愛くて、ずっと傍にいたい。イルカ先生が恋人なら幸せだろうなぁ」
そう言って手を取り頬ずりした。彼はそういうスキンシップを好み甘い言葉を平気で言う。だからこそ俺の荒れ狂う恋は更に畝りここが目的地だと勘違いしそうになる。
「カカシさん、真面目に答えてください!」
「えーすっごく真面目なのに」
ぶぅーと頬をふくらませる。子どもっぽくて普段見せることのない表情はひどく心を乱す。
それを悟られたくなくて、手を無理やり離し、テレビを見た。
「芸能人では、どの人がタイプですか」
更に無意味な質問をする。それでどう答えれば俺が満足するのか。それは諸刃の剣なのに。
彼は一緒になってテレビを見て、ふと出た彼女に指さした。
「あー、芸能人でタイプなら、・・・この子かなぁ」
テレビにうつったマリンちゃんは、キラキラと輝いて、大きなおっぱいを揺らした。
それを見た時、完敗だと悟った。
天地がひっくり返ったって俺なんか相手にされない。
だから、この恋は諦めるしかないのだ。
そう理解したのに、簡単には諦めることなど出来ない。そんな気楽な恋なら最初から苦しむことなどないだろう。
だからこそきっかけがほしかった。
諦める、きっかけが。



*§*―――――*§*―――――*§*



「んまぁー、お客様。よくお似合いですぅ」
褒めちぎられても所詮他人の姿、しかもトップアイドルだ。寧ろ当たり前だと思ってしまう。
「あの、・・・もう少し、その、セクシーなのを・・・」
普段では言えないことも所詮仮の姿。何でも言えてしまうから不思議だ。
白いワンピースは確かに清楚で美しいが今欲しいのは、色気だ。襲いたくなるほどの。
そう言うと店員は「んまぁー」と意味ありげに笑い店内から真っ黒なロングのワンピースを持ってきた。胸元はがっつりあいていて、スリットもパンツ丸見えなぐらい入っている。
「こ、これ、下着見えませんか・・・?」
「んまぁー、お客様。下着も当店は取り扱っております。これなんかいかがでしょう?」
そういって持ってこられたのは紐だった。
いやよく見ると少しだけ布がある。
(こ、これは、巷で有名なてぇーばっく・・・っ!)
「一式揃えられますか?靴などこれはいかがでしょう?」
そう言って持ってこられたのは人でも刺せるのではないかと思えるぐらい高いヒールの靴だった。
「あ、あの、その・・・っ、し、試着してもいいですか」
「勿論です。どーぞどーぞ」
試着室に入り、紐、いや、てぇーばっくを手に取った。
こんな薄い面積で何が守れるのだろうか。
とりあえず着ていた支給服と男物のパンツを脱ぐ。
そしててぇーばっくを掴み、勢いをつけてはいた。
(えいやぁ!)
つけてみると薄いしスースーするし、やはりこれはパンツの機能を果たしてないと思う。
どうなのだろうと鏡を見ると。

上半身裸の美女が、てぇーばっくだけはいてる。

ブッと鼻から鉄の匂いがしてあわててふさいだ。手からは血が流れている。
油断した。今は自分の姿だが、元々女に免疫のない俺がこんなAVみたいな姿を見せられて興奮しないわけない。
慌てて鏡に背を向けて美女と正反対にいるガイ先生を思い出す。白い歯、おかっぱ頭に緑のジャージ。
スッと血は止まり、気分も爽やかな気持ちになれた。流石ガイ先生だ。
なるべく鏡を見ないように着替えながら、何やってるんだろうなぁ俺はと本気で思った。
試着したまま服を購入した。吃驚するほど高かったが背に腹はかえられないので泣く泣く払った。女は金がかかると誰かが言っていたが、服一つ買うのにこんなにもするのだから仕方ないと思う。俺のパンツより面積の少ないてぇーばっくでもゼロが一個違った。
バランスの取りにくい靴は修行だと思えば耐えられた。そうかくノ一はこうやって修行しているからバランス感覚が良いのかもしれない。
「ねぇ」
ボンヤリしていると、男から声をかけられた。見知らぬ顔だったので知り合いではない。ないのにも関わらずなぜかとてもニコニコされておられる。なんぞやなんぞや。
「君、可愛いね。暇?よければ一緒にどこか行かない?」
「ぉえっ?」
おっと、変な声を出してしまった。のにも関わらず男は相変わらずニコニコしている。
え?ナニコレ?コレ、巷でよく聞くナンパ?ナンパなのか!?
さすがアイドル!歩いているだけでナンパされるなんて都市伝説だと思っていた!
よく見るとチラチラと男から視線を感じる。え?なにこれモテ期?人生で三回ある内の一つなのか!?大事なモテ期はこんなときに訪れるのか!?
(イケるんじゃないのか・・・!)
こんな簡単に、ただ歩いているだけで、人々を虜にするのか。顔がよく、スタイルバツグンなら。そんな魔力を生きてきて二十数年起きたことなどなかったので、もうそれだけでなんだかカカシさんもイケそうな気がしてきた。
胸をぎゅっと寄せてみるとそれだけで視線が一斉に胸元に集中した。まぁ男とはそういうものである。俺だって凝視する。
「ごめんなさい。今日は予定があって」
軽い足取りで歩くとまるでアーチのように左右に人が寄ってきた。それを笑顔を振りまきながら歩く。
もうなんだかこの光景は自分が男だと忘れさせる。それどころか自分はトップアイドルで、みんなから好かれて、そして。
そして。
好きな人も振り向かせられそうな。
「可愛いね。好きだよ」
そう言ってもらえるような、そんな期待が胸いっぱいに膨らんだ。
(カカシさん・・・っ)
ヒールの高い靴は歩きにくいはずなのに、まるで羽が生えたようにふわふわと軽い。

早く会いたい。
会いたい、会いたい。



*§*―――――*§*―――――*§*



彼の家は四つある。
ダミーのマンションとダミーの平屋と寝るだけのマンションと、郊外にひっそりと建つ実家だ。
そのどれもに、俺は招待されたことは密かに自慢だ。
「いつもはダミーのマンションを教えるの。狭くて汚いから大体そこで呆れられて、五月蝿いのがいなくなる。だから本当は先生には見せたくないなぁ。普段は本当に綺麗にしてるんですよ?オレ、家事得意だし」
そう言っていたが、ダミーのマンションは俺の部屋より広くて綺麗だった。俺の家に初めて来たとき、カカシさんは心做しかあちゃーという顔をしていたが、見なかったことにした。
「寝に帰るマンションはアカデミーに近くていいデショ?先生さえよければ合鍵渡すからいつでも来ていいよ。住んでくれたらもっと嬉しい。え?家政婦になれってことかって?ちがうよー、家政婦はオレ。何でもしてあげるよ。なんでも。ねぇ、どうかなぁ?」
そう言って見せられた鍵は彼の髪と同じ銀色で。なんて魅力的なのだろうと思った。勿論貰えるはずない。あれはカカシさん得意の冗談なのだから。
昨夜帰ってきたらしいカカシさんは、恐らく今は寝るだけのマンションにいるだろう。昼も過ぎたからそろそろ起きるはずだ。
そんな些細な彼のことが分かることが誇らしく、だがどこかで後ろめたい。彼はきっと俺がこんな邪な気持ちを持っているとは知らずに友人として無邪気に教えてくれたのに。俺は下心で聞いている。なんでも彼のことを知っていたいという浅はかな下心だ。
マンションの玄関で立ち止まり深呼吸した。
下を見ると女の身体がそこにある。
(大丈夫・・・)
街であんなにみんな反応してくれたんだから。誰が見ても美しく魅力的な女性なのだから。彼だって好みだと言ったぐらいなのだから。
きっと。
きっと。
彼を思うだけで胸の高鳴りが弾けて辺り一面に響き渡るのではないかと思うぐらい激しく脈打つ。
チャイムを押す。
いつもなら。
「イルカです」と言えば、中から大袈裟なほど慌てた音がして。
ドアを開けてくれたカカシさんがへにゃりと笑って「待ってました」と言いながら迎えてくれる。
「どうぞ」といいながら体をずらし、そっと俺の背中に手を添えて中へ迎え入れてくれる。
まるでずっと恋焦がれた相手を歓迎してくれるように。熱烈に、そして無邪気に。
きっとこんな姿だから。
「美しい」「可愛い」と言ってくれるのではないか。
いつもは信じられない言葉だが、この姿なら信じられる。その言葉の本来の意味を噛み締めて身を任せたい。
無邪気に嬉しいと笑って、貴方が好きですと伝えたい。

ずっとずっと恋焦がれていたと伝えたい。

だが、扉は開かなかった。人の気配はするのに。
もう一度チャイムを押した。
物音一つしなくて、部屋を間違えたのかと不安になる。だが見慣れた部屋だ。間違えるはずない。
「あの・・・」
ノックをする。
どうしたのだろう。気分でも悪いのだろうか。
もしかして任務で何かあったのだろうか。
「カカシさん・・・?」
呼ぶと中で微かな音がし、やがてドアが開いた。

そこにいたのは見慣れたはずなのに。
冷たく見下ろすその顔はまるで別人だった。

(あれ・・・?)
そんな顔、知らない。
こんな怖い顔知らない。
こんな、まるで人を見る目ではない。
まるで虫けらでも見るような冷たい目。
俺は見たことない。
「ナニ?ダレ?」
低い、低い声で言った。
いつものどこか甘えたように、まるで猫のように戯れ付く声ではなかった。
一切の無駄もなく、感情もない。まるで敵に尋問しているかのようだった。
こんな彼、知らない。
「ぁ、の・・・」
喉がカラカラになり、声を出そうと息を送ると擦れた。
確かに、初対面かもしれない。チャクラが今ないから一般人だ。だけど魅力的な女性で、わざわざ家にまで来たということは、好意的ではないかと思わないのか?敵の多い彼はこれが普通なのか?
「この部屋、知ってるヤツ殆どいないんだけど、・・・誰から聞いた?」
そう言われて押し黙った。
俺だと言いたくない。言えば人に家を教える軽率なヤツだと思われたくない。確かに無理があったかもしれない。だけどどう見てもチャクラを感じない一般人だ。警戒しすぎではないか。こんなか弱そうな女に何が出来ると言うのか。
「私・・・、私、カカシさんのファンで・・・」
「ソレ」
眉を顰め苛立ちを隠さずに詰め寄る。
「何気安く呼ぶの?オレを『カカシさん』って呼んでいいのは、・・・この世で一人だけだ」
その言葉に、どうしようもないほど動揺した。
そんなこと初めて聞いた。
だって彼が下の名前で呼んで欲しいと言ったから。上忍は止めてって言ったから。
だから呼んだのに。そんなに大切な呼び名なんて言ってくれれば良かったのに。
そう呼ぶとくすぐったそうに嬉しそうに笑うから。そんな気がしていたから、俺は愛しいと言う言葉を口にしない代わりに、その想いを込めて呼んでいたのに。
本当は、嫌だったのだろうか。
嬉しそうに見えていたあの顔は、作り物だったのだろうか。
そう考えると、彼が嬉しいと言ったこと嬉しい顔をしたモノ、全部が色褪せてくる。
あれは全部社交辞令だったのだろうか。部下たちと繋がっているから無碍にできないと、そんな風に思っていたのではないか。
そう思ってくると今まで得てきた地位がガラガラと音をたてて崩壊していくような気がした。
「・・・そんな顔されると困るんだけど」
彼は頭をかくと、はぁーっと溜息をついた。
「悪かったよ。ちょっと任務あけで、イライラしてただけ。その顔知り合いに似てて、心臓に悪いからやめて」
ね?と促しながら、彼はどうしたらいいか分からないような顔をした。相変わらずいつものような優しい顔ではなかったが、それでも少しだけ警戒が薄まった気がして、それだけで泣きそうなぐらい嬉しかった。
「で、何の用?」
素っ気のない言葉だ。
「あの・・・」
殺伐とした空気は、告白できるような甘いものではない。だけど、自分は引き返せない。期間はもう半日しかないのだから。
顔が見れなくて俯く。見慣れた足の形が確かに彼と対面しているのだと感じられた。
「あのっ、私っ、ずっと前から・・・っ」
ずっと前から。
出会ってからゆっくりと、だけど確実に好きになっていった。その想いは今や溢れんばかりあふれて、どうしようもないぐらい積もっている。
カカシさん。
カカシさん。

「好きです・・・」

綺麗な声が響いた。
俺のうるさい色気のない大声ではなく、心地いい柔らかな声だ。
だけど違和感が、じわじわと俺を襲った。
確かに俺が話した言葉なのに。
俺の本心からの想いなのに。

ずっと、ずっと大事にしていた、恋なのに。
どうしようもなくて、迷って、焦って、諦めて、それでもどこか期待して、すがって、祈って。
とても大事な恋なのに。

なんだか薄っぺらく、他人行儀に聞こえた。
まるで俺ではない他人が彼に告白しているようだった。
たった四文字、そんな言葉ですませられる感情ではないはずなのに。
それでもその四文字でしか伝えられない言葉なのに。
俺の感情は、こんなものではないのに。
もっと言わないと、そう思った。
もっと、もっと伝えたいことがある。
「ずっと、ずっと好きでした。ずっと見てました。初めて恋を知りました。切なくて苦しくてそれでも焦がれて止まない恋でした」
声に出せば出すほどなんだか薄っぺらく、もどかしい。もっと伝えたいことがあったのに。もっと、言わなければいけないことがあったのに。そのどれもがうまく言葉になってくれない。ただ薄っぺらな上部だけの言葉が宙に浮かんでは消えていった。
彼は何も言わなかった。
ただ俺が黙り込めば、ひんやりとした空気になるのが嫌で言葉を紡いだ。
「叶うなんて思っていません。しょ、初対面でいきなりですし。ただ、私は、その・・・っ」
どうか諦めるから。
迷惑かけたりしないから。
勇気を出して彼の顔を見た。

「貴方に、一度でいいから・・・っ」



言えたのはそこまでだった。


なんだよ。
なんだよ、その目は。
なんで、何もうつしてないんだよ。
アンタの好みだろ。女好きなんだろ。抱ければ、重くなくて、一度の関係なら、誰でもいいんだろ。
なんで。
なんで俺をうつしてくれないんだよ。
いつも、いつも彼の目には俺がいた。確かにこちらを見て、幸せそうに笑う俺がいた。そんなものだって、思っていた。
なのに、彼の目は暗くて底知れない常闇しかなかった。
「アー・・・」
心底面倒臭いと言うように頭をかいた。
「悪いけど、そういうの、よそにあたって?オレは間に合ってる」
冷たい言葉に心が震えた。
だけどそうですかなんて言えない。
「一度、一度だけでいいんです。後はなにも言いません。本当です。念書だって書きます。ただ一度だけ・・・っ!」
「アンタがいつのどんな噂聞いてきたのか知らないけど、・・・確かに昔は誰でも良くて寝てたけど、今はそういうことやめたの」
「あの、だけど、一回だけ。煩わしいこともしないし、本当に好きなことしてもらって・・・っ」
「アー・・・、あのねー」
はぁーと溜息をつかれた。

「オレね、好きな人いるの」

分かる?とさも言い聞かせるようにそう言った。
だが、そんな顔を見る余裕などなかった。
その言葉に、足元から崩れ落ちそうになった。
好みのタイプを聞いた時のショックの比とは、比べものにもならなかった。
あれが失恋だと、よくもまあ知らないのに言えたものだ。
そんなレベルじゃない。
「好きな、人・・・」
誰も居座せないはずだと思っていた彼の心は、とっくに誰かのものだったのだ。その人のために、オンナ遊びも止めれるぐらい真剣な。
失恋とはこんなものだったのだ。
何より。
人一倍知っていると思っていた彼のことを、実際はそんな事も知らなかった。
そして住んでいる場所を教えてもらえるぐらい信頼を得ていると思っていたのに、実際は好きな人がいることすら教えてはもらえないほど、たいした関係ではなかったのだと打ちのめされた。
それにひどく驚き、狼狽し、絶望していた。

なんだ。
なんだ。

失恋と分かっていて、それでも女に一日だけなれたから、諦めるきっかけとして、抱かれに来たつもりだったのに。
一度抱かれて、思い出作って。
そしたらスッパリ諦めるつもりだったくせに。
今更。
今更、彼に好きな人がいても驚かないと思っていたのに。
こんなにも絶望しているなんて。


一度抱かれたら諦めるだって。
嘘つけ。
あばよくば、きっかけを作るつもりだったくせに。
泣いて責任とれと詰め寄るつもりだったくせに。
そうやって離すつもりなかったくせに。
誰も入れない彼の心に無理矢理居座ってやろうといつでも画策していたくせに。
諦めるなんて、そんな物分かり良い顔して。
お前は狡賢く、卑しいヤツだよ。
男のくせに。
彼のために何も出来ないくせに。


「好きなんです・・・」
か弱い声が響いた。もう自分の声なのか、他人の声なのか分からない。
「あきらめられないぐらい、好きなんです・・・」
ポロッと涙が流れた。
すると感情の波がそこから溢れ出るように、次々と流れ出ていく。
それは彼への恋心をも流れ出ていくようで。
諦めたいと思っていたくせに。
それがとても嫌で、必死に涙を止めようとした。
忘れたくない。諦めたくない。
矛盾している。そうすれば苦しいだけなのに。
彼の心は一生手に入らないのに。
だけど本能が、止めたいと、ただそれだけを思っていた。
「・・・悪いけど」
彼の声はやはり変わらず冷たく他人行儀だった。
「アンタが泣いても可哀想とも思わないし、正直早く帰ればいいのにって思ってる。アンタが何を見てオレを好いてくれてるのか知らないけど、オレは冷たいし任務以外では出来た人間じゃない。上っ面がいい奴なら他にも沢山いるし、・・・ほかあたって」
切り捨てるかのような、冷たい言葉。
でも、俺は否定するために首を振った。
そんなことない。
カカシさんは優しい人だ。
いつだって。
今だって。
想いを返せないから、そうやって自身が悪者になって突き放してくれる。
入る余地などないのだと、はっきりと明白に示してくれている。

あぁ、これが失恋か。

重くて苦しい。ギュッと心をつかまれて、重い負の感情の鉛をベタベタと垂れ下がるようだった。
だけど、どこか清々しい。
ここが、俺の初恋の終点なのだ。
ようやく流れに身を任せていた船は大破し、海の藻屑になれた。
進むところまで進んだのだ。やりきったのだ。
後は振り返ったり悩むことがあるけど、それでも完膚なきまでに終わったのだ。
終わったのだ。
今は悲しくて辛くて苦しくて泣くことを止められないけど、だけど悲しだけではない。初めてこんなふうに戸惑ったり奮い立ったり、きっと恋をしなければわからなかったことだ。それの相手が彼でよかった。実らなかったけど無事終焉を迎えられてよかった。彼を好きになってよかった。
きっといつか笑顔でそう言える気がする。
今はまだなれないけど。
「カカシさん・・・」
グスンと鼻がなった。
今、女で良かったなぁ。男で鼻水垂らしながら告白されたらたまったもんじゃない。
ゴシゴシと顔を拭い、彼を見た。
やはり彼の目は何もうつさず、ボンヤリと俺を見ている。
一度も笑ってはくれなかったな。俺といる時はいつも笑ってくれていたのに。
「カカシさんは優しい人です。優しくて、強くて、だけどどこか可愛くて、守りたい人です。俺はいつも、カカシさんの手を握ってあげたかった。寂しくないように、悲しくならないように、辛い時癒せるように。そうやってずっとずっと手を握って隣にいたかった。・・・でももう諦めます。諦められます。今までありがとうございました」
ペコッと頭を下げる。
後悔はない。やりきったのだから。
そのまま彼を見ずに走り出した。
これ以上居座れば彼に迷惑だ。これ以上することはない。
走って、走って走って走って。
家に帰ると靴を脱ぎ捨てた。
服も全部脱ぎ捨てた。
こんなもの、何一つ役に立たなかった。気を引くこともない。
女になれば、美女になれば、彼の心を手にいれられると思い上がっていた自分がなんと愚かで浅はかなだったのだろう。
自分ならどうだ?好きになるのか。
なるはずない。
好きなんて、そんな簡単なものじゃないはずだ。
そんなもので、心を掴めるような、そんな人間を好きになったわけじゃない。
これで良かったのだ。
これ以上の結末など、最初からなかったのだ。
「ーーうぅ・・・っ」
それでもやはり悔しい。悲しい。
もう頭では理解していて納得しているけど、心はついていけてない。
溢れ出ていく涙は止められない。
誰も咎める人も迷惑をかける人もいないのだから。
俺は大声を抑えずに、泣き叫んだ。







それから、どれぐらい時間が経っただろう。
どこかで、トントンと戸を叩く音がしてふと意識を浮上させてた。
どうやら泣き疲れて眠っていたようだった。
時計を見ると時間にして三十分ぐらいだった。
トントンとドアを叩く音は鳴り止まない。
のろのろと起き上がると、太い足が見えた。
途端、目が覚めた。
体中を眺める。腕も体も見慣れた自身のものだった。どうやら元に戻ったみたいだった。
なんだか夢のようだったなぁ。
何もなければ、ただ全裸で寝ていただけなのだが。
隣に脱ぎ散らかされた女物の服が、はっきりと現実を訴えていた。
知らなければ、よかっただろうか・・・。いや、結果が分かっている今、もうあんないつフラれようか、でももしかしたらと期待する、あんな時には戻りたくない。
「イルカ先生」
外から声がしてビクッとなる。
まさか。
なんで。
「イルカ先生、開けて」
トントン、トントンとまるで苛立つようにノックされる。
その声は、つい先程まで聞いていた、カカシさんのこえだった。
(まさか、バレたのだろうか・・・)
それならわざわざここに来るような手間はかけず、ズバッとその場で言うだろう。
そう言い聞かせるが心臓はバクバク鳴っている。
もしバレたら、軽蔑されたら、と思うと一歩も動けない。振られているが、彼に失望されるのは何としてでも避けたい。だからこそあのタイミングで告白したのだ。
友人でいられるように。
「イルカ先生、いるのは分かっています。開けてください」
どこか切羽詰った声に、ビクッとなりながらも体は動けなかった。
(どうしよう・・・)
風邪だと偽ろうか。だけど今日言われなくてもいつか言われる。それをビクビクとしながら過ごさなければならない。それならいっそのこと今言われた方がいいかもしれない。
でも・・・。
ノックの音はさらに激しくなる。
「開けて・・・、先生早く・・・っ」
ぐるぐると思考が結びつかず、ただ玄関を見ていた。
出なきゃと思うのに、どこかでやり過ごしたいと思っている。
いつだって会いたい人なのに、今日だけは会いたくない。
「あ、の・・・」
僅かに声が擦れだ。弱々しく自分の声ではないみたいだった。
「ちょっと調子わる」

「いいから開けろ」

怒気を含んだ声とともに、ドンッと殴りつけるかのような大きな音がした。そしてドアから離れてでも感じるぐらい、殺気を感じる。
怒っている。
そんなこと初めてで、ぶるりと震えた。
人の気持ちを、試すようなことをした。
リスクを回避するために自分を偽った。
馬鹿にされたと思われただろうか。
女の姿をして、告白なんて滑稽なことをして。
後ろめたいからこそ罪悪感が一気に押し寄せた。
殴られるだろうか。
いや、それならまだいい。
失望されたら。
軽蔑の眼差しで見られたら。
ポロリと止まったはずの涙が零れた。
(嫌だ・・・)
嫌だ。そんな事耐えられない。
そうならないために、今回の奇跡に縋ったのに。これでは逆効果だ。
嫌だ。嫌だ嫌だ。
「カカ」
ドンッと壁を壊すような勢いで叩かれた。
「早くして。ドア壊すよ?」
恐怖で頭が真っ白になる。
震える手でズボンを履くと、のろのろとドアを開けた。
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