誰もいない部屋でボンヤリと座っていた。
はたけさんは一緒に来ていた人に呼ばれて行ってしまった。
「今日は遅くなるので、先に寝ていてください」
そう言い残して。
日が差し込むのでまだ日中なのだろうが、あれから何時間たったのか分からなかった。ただ、動く気力がない。
仕事、だと思った。
初めて任された、俺の仕事。
なのに土壇場になって、泣き叫んでできなかった。
毎晩、はたけさんが教えてくれていたのに。
そのために俺はここに存在しているのに。
借金を返すため、彼が提案してきた俺に唯一できることなのに。
泣いて、叫んで、彼にしがみついてしまった。
『させない』
彼の言葉が蘇る。
泣きだす俺に、怒るわけでもなく、抱きしめ力強く言ってくれた、彼の優しさ。
『誰も貴方に触らせたりさせません』
その言葉は俺を慰めるための言葉だと分かっている。
それでも俺は男に襲われた恐怖や自分の不甲斐なさが考えられなくなるぐらい、嬉しかった。
だからこそ、彼に甘えてはいけない。
(帰ってきたら、謝ろう)
仕事ができなくてすみません。
次は必ず、必ずしてみせます。
決して貴方との約束を違えたわけではありません。
きちんと準備して、必ず、必ず。
そう思いながら、ぽろっと涙があふれてきた。
あの日、覚悟を決めたはずなのに。
施設を守るため、覚悟したはずなのに。
彼を知ってから、彼に抱かれてから。その決意がこうもぐらつくなんて思いもしなかった。
どうして。
どうして彼以外だとこんなにも拒絶してしまうのだろう。



ガチャっと音がして、ハッとなる。
時計を見ると0時前だった。
「うみのさん……?」
「っ、はい」
はたけさんの声がして慌てて起き上がり、リビングに向かう。
しまった。今日は何もしていない。
食事も風呂の準備も、何もかも。
「すみませんっ、俺…」
「寝てましたか?ご飯は?」
心配そうに頬を撫でる。その優しさに涙があふれそうだった。
「すみません。何もしてなくて…」
「あぁ、いいんですよ。お腹すきませんか?カップラーメンでも食べましょう」
そう言って、ヤカンに火をかけた。
「すみません…」
「今日いた男ですが…」
ヤカンの方を見ながら小さな声でボソッと喋った。
「もう二度と貴方の前には現れないようにしましたから」
小さな、それでいて鋭く冷たい声だった。
はたけさんを見ると表情のない顔で何事もないかのようにヤカンを見ていた。
それは、どういう意味だろう。
深く考えてはダメなのだろう。俺とは違う世界なのだから。
「すみません…」
それしか言葉が出なかった。
情けない。結局ははたけさんにすべて任せてしまった。
俺はどこまでも傍観者だ。
シュンシュンとお湯が沸き、火を止めた。
「どれ食べます?」
戸棚から並べられたカップラーメンを取り出す。
「あっ、じゃあ…しょうゆを…」
そう言うとフッとはたけさんの表情が和らいだ。
「オレも今、同じことを思いました」
その時の感情をどう表現すればいいのだろう。
つられるように俺も笑っていた。
まるでそうするのが自然のようだった。


遅いのでお互いシャワーだけ浴び、寝室へ向かう。
先にいたはたけさんはいつもとどこか違い、寝室にどことなく緊張感があった。
ごくっと唾をのみ込む。
きっと言われる。今後のことを。
俺も、言わないと。
ベッドの上に正座する。
はたけさんもぎこちない笑みを浮かべながらこちらを向いた。
俺から言わないと。
このまま彼に頼り彼の優しさに流されてはいけない。
「うみの…」
「あのっ」
彼の言葉を制するように言った。
「今日はすみませんでした。俺いきなりで、吃驚してっ、でも、あの、つ、次は必ず、必ずきちんとしてみせますから…っ!!」
一気に言い切ると、余程緊張していたのか今更心臓がドクドクと大きく脈打った。
「……うみのさん」
静かな声に怖くて顔をあげられない。
彼の表情が怖い。彼の言葉が怖い。
罵倒されたらどうしよう。
呆れられたらどうしよう。
失望されたらどうしよう。
そう思うと頭が真っ白になり、ガチガチと歯が鳴る。

「オレだけでは、ダメですか…?」

言っている意味が分からず、思わず思考が停止する。
呆気にとられている俺の頬を優しく撫でてきた。
「オレだけの相手をしてくれませんか…?」
「えっ…?」
「たくさんの相手をするよりは時間がかかると思います。でも貴方を酷い目にあわすこともありません。一人相手の方が気兼ねしないだろうし」
「それで、いいんですか…」
だって5億だ。そんな大金を出させておいてこんな恵まれた生活だけでいいなんて。
そんな。
そんな、幸せなことーーー……
「元々、オレはそのつもりでした」
そういうと強く抱きしめられた。
混乱してバタバタと動く俺を大事そうに抱きしめられる。
とても、とても大事そうに。
分からない。
彼が何を思ってそう提案してくれているのだろうか。
そんなことをして彼は何か利益になるのだろうか。
分からない。何も分からない。
だけど。
だけど俺には賛成も反対もできない。
ただ従うだけだ。
「はたけさんが、それでいいなら……」
何とも陳腐な言葉だ。
彼を喜ばせることも、自分に納得できることもできない。

それでもはたけさんは優しく微笑んでくれた。



.
**



その日からまた以前のように彼のためにご飯を作り、彼のために掃除をし、彼のために洗濯をし、彼のために抱かれる日々を繰り返していた。
仕事が忙しいのか帰りが遅くなる日が多く、一日も休みがなかったが、彼はそれが普通なのか特に疲れた様子は見られなかった。
今日も深夜に帰ってきた彼を出迎えながら心配になる。
「はたけさん疲れていませんか?」
ご飯を渡しながら尋ねたが彼は淡々とした様子でいいえと首を振った。
「あぁ、でもうみのさん外に出れなくて退屈していませんか?」
「お、俺ははたけさんがいなくても外に行けますっ」
「行っちゃダメでしょ」
クスクスと笑われた。
段々と表情を見せてくれるようになり、なんだか親しくなっていくようで嬉しくなる。
だが、今のセリフは笑うところだろうか。
「……うみのさん」
考えていると真剣な声で呼ばれた。
「はい?」
彼を見ると言いにくそうに口をもごもごさせ、頭を掻いている。
「その……、そろそろ下の名前で呼んでくれませんか?」
「え…?」
「カカシって」
そういうと恥ずかしいのか頬をほんのり染めながら目を逸らした。
「あっ、えっと…」
「オレも、もっと貴方の名前を呼びたい」
『イルカ』
彼は抱く時だけ、俺の下の名前で呼ぶ。
『イルカ』
熱を持った低い声に頭が痺れ、それだけで俺はぐちゃぐちゃになる。
あの熱を、声をもっと聞けるのだろうか。
俺も彼のように呼べるのだろうか。
「カ、…カカシ、さん」
少し上ずった声になってしまい、恥ずかしくて俯く。
一緒に暮らして、セックスして、名前で呼び合って。
これって、まるで。
まるで―――……
「イルカ」
いつもと違い、吐息とともに呼ばれた名前。さらに恥ずかしくなり顔があげられない。
彼はどんな表情で俺の名前を呼ぶのだろう。
どんな気持ちで俺を呼ぶのだろう。



風呂から上がると珍しくリビングから光が漏れていた。
消し忘れたのだろうかと覗くと彼がテレビを見ていた。
(珍しい…)
彼は基本何事にも関心が薄かった。テレビも興味を持ってみることは稀だった。
とりあえず少し間をあけて隣に座ってみると、くすっと笑われて抱き寄せられた。
お互い風呂上がりだからか暖かい。
テレビを見ると拳銃を持った強面の男たちが何やら叫んでいた。
「……やくざ映画?」
「見たことあります?このシリーズ中々迫力があって面白いんですよ」
本当に好きなのか目を輝かせて見ている。
正直俺は見たことがなかったので良いか悪いかは分からなかった。ただひたすら強面の男が画面いっぱいに現れていた。深夜番組だからか多少過激で戦闘シーンがあり、血が噴き出すシーンでは思わず悲鳴をあげてはたけさんに抱きつくと嬉しそうに目を細めて額にキスしてくれた。
中盤、組長の女が敵対する組にさらわれ、輪姦されるシーンになる。手錠をはめられ、入れ替わり立ち代わり男たちに犯されていく。
シーンが過激になるにつれ恥ずかしくて見ていられなくて俯く。
「見ないの?」
彼に囁かられ、顔があげられない。
きっと真っ赤になっているだろう頬をそっと撫でられる。
「すごいよ?女、乱れまくってる」
喘ぎ声が部屋中に響き渡る。
甲高い声はまるで自分がいつも発している声のようだった。
彼の手が、頬から胸元に移る。
「…そういえば、手錠買いましたね」
そう呟くと立ち上がり、部屋から出て行った。
手錠…?
それはあの怪しげな店で買ったのだろうか。沢山買っていたのでどんな商品があったのか知らないが手錠などあったのだろうか。
しばらくして彼が部屋に入ってくると、手には銀色の物を持っていた。
「あった」
それは子どものような無邪気な笑みだった。
「は、はたけさ…っ」
笑みのままソファーに近づくと押し倒される。
「えっ?えっ?」
後ろに手を回され、カチャカチャと音がすると思うと刑事ドラマで見る手錠がつけられていた。
「縄でもいいけど、こっちもイイネ。捕まえたみたいだ」
そのまま服を脱がす。
「はたけさ…っ、ダメです、嫌っ」
「また苗字で呼ぶ。…オレの名前に慣れるまで焦らしてあげましょうか」
フフッと笑いながら乳首を吸った。
その感触で思わず仰け反り、自身の腰をくっつけるようになる。
「ガマンできない?」
「っ、ちが。…あぁ」
ズボン越しに触られ更に仰け反る。
部屋にはまだ女の喘ぎ声がする。
「手を動かせないことだし、今日は恥ずかしい恰好してみましょうか」
「えっ」
ズボンと下着を素早く脱がせ、足を大きく開かせた。
ヒュッと喉が鳴った。
「――やだっ」
「丸見え」
足を両手で固定して顔を息がかかるぐらい近づけた。
呼吸するたびに息が熱く触れる。
羞恥心で体が熱くなるのが分かった。
「はたけさっ、やめて」
「カカシ」
お仕置きとばかり太ももをきつく吸い上げる。それがたまらなく良かった。
わざとイイところを外してきつくきつく吸い上げる。放す度にくちゅっといやらしい音がする。
頭が変になりそうだった。
「あぁ、もうこんなにドロドロだ。まだ触ってもいないのにそんなに人がしてるとこ見るのが良かった?今度AVでも借りますか?それとも手錠がイイ?今度は足も固定しましょうか?椅子に座って足開いて、ずーっと、入れてほしいと泣き叫ぶまで見ていてあげましょうか?」
「や、やぁ…っ」
喋るたびに吐息がかかる。
恥ずかしくてたまらないのに、体は嬉しそうに反応する。
「どうしてほしい?指を突っ込みましょうか?それとも舌で舐め回してほしい?」
「ふっ…、んっ」
言いながらさわさわと尻を触られる。焦らすようにわざとイイところを避けて。
目をギラギラさせながら顔が近づいてくる。
「オレの名前呼んで、オネダリしてみて?」
ゾクゾクするような低い声で囁かれた。
「カ、カカシさん…っ」
「ん?」
「カカシさん、シて」
消えそうになるぐらい小さな声で言うとクスクス笑われた。
「指?舌?」
「ゆ、指…っ」
自分の指を見せつけるかのようにちゅばちゅばと舐める。
白く、細い彼の指を。
「これ?」
濡れた指先を俺の唇に近づける。
無意識に舐める。
彼の唾液と自分の唾液が混ざるように。
「これ、ほしい」
「イイ子」
口から抜き取ると俺の中に入る。直接的な刺激に体が待ち望んだかのように容易く翻弄される。
「カ、カカシさっ……カカシさん…っ」
「イルカ」
濡れる音と俺の声と彼の声しか聞こえない。
まるで世界がそれだけしかないように。
彼の声と、熱が俺の世界だ。
「……今日は乱暴にシたい」
酷く熱にうなされた声が聞こえた。



.
***




その日は珍しく彼が昼過ぎに帰ってきた。
「早かったですね」
「部下にいい加減休めと強制的に帰されました」
いい部下だ。彼を気遣ってくれているのだろう。確かにここ最近は深夜に戻り朝早く出ていく。いつか過労で倒れるのではないかと心配していたところだ。
「夕飯の支度、まだでしょ?よかったら出かけませんか?」
「えっ?カカシさんお疲れでしょう。家で休まれたら……」
そういうと困ったように笑った。
「今家にいたら、イルカのこと抱きつぶしそう」
そう言いながら手を服の間に入れようとする。慌てて服を引っ張り、距離を置いた。
だって数時間前までシてたんだ。もう空っぽになるぐらい何度も。これ以上されたら身が持たない。
「分かりました、出かけましょう」
真っ赤になって言うとクスクス笑われた。
「そうですか。どこか行きたいところありますか?」
「行きたいところ…」
うーんと考える。
「カカシさんはありませんか?」
「オレ?……あぁ、駅前にテーマパークを模した面白い建物ができたのは興味深かったな」
「テーマパーク?」
この人、そんなところに行きたいんだ。澄ました顔をしているが意外と子どもらしい一面があるのだと感心した。
「部屋にメリーゴーランドがあり」
「へー、室内ですか。珍しいですね」
「となりに回転ベッドがあるらしいです」
「かっ」
それはテーマパークじゃない。そんな卑猥なテーマパークがあってたまるか。
「遠心力とセックスって関係あるんですかね。回りながらするのってそんなに気持ちいいか一度試してみたい」
「遠慮しますっ!」
毎日あれだけしているのに、まだ足りないのだろうか。
「そうですか。それは残念」
少しも残念そうではなく呟く。彼の冗談なのだろう。分かっていても顔が真っ赤になる自分が恨めしい。
「あっ、俺ほしいものがあるんですけど」
「何ですか?」
「おでんを煮る大きな鍋がほしくて」
今ある鍋では小さくて色んな具をたくさん入れたい俺にとってこの鍋では不満だ。
「…鍋」
きょとんとされた。
「はい。あっ、それから土鍋も買おうかな。冬になるとキムチ鍋食べたくなりませんか?ようやく葉物が安くなってきたんで、白菜たっぷり入れて」
そこまで言うと口元を押さえて顔を背けられた。よく見ると小刻みに震えている。
そんな変なことを言っただろうか。
「カカシさん?」
「初めてのオネダリが、鍋…っ」
くくくっと声がして初めて笑われているのだと気づく。
「な、なんですか」
「そんなものねだられるのは初めてで。本当イルカらしい。いや、貴方がほしい物ならなんでも買ってあげますよ。鍋の一つや二つ。純金にしましょうか?」
純金の鍋。どんな成金だ。
「そんなの美味しくないじゃないですか」
「それもそうですね」
それでもまだ可笑しそうに笑いながらコートを取った。
「寒くなりましたから、風邪ひかないでくださいね」
そう言ってそっとかけてくれる。柔らかな肌触りに思わずうっとりする。
彼のコートからはわずかに彼の匂いがした。




百貨店にいくとシーズンなのか鍋やおでんの特設スペースができていた。
二人分よりやや大きい鍋をみる。
「カカシさんはおでんの具は何が好きですか?」
「おでん…」
考え込む彼にもしかして食べたことがないのかと不安になる。
おでんは庶民の食べ物ではないだろう。いや、彼はカップラーメンを美味しく感じる庶民だったみたいだが。
「た、食べたことないんですか?」
「…いえ、食べたことあるはずですが」
まだ考えている彼をみながら、おそらく食べたのはかなり昔なのだろうと推測する。
そしてふと思う。
この人、普段俺と食べる以外で何を食べているのだろうかと。
「カカシさん、今日の昼は何食べました?」
「今日…?」
「もしかして食べてないんですか?」
昼過ぎに帰ってきたのでてっきり食べたと思っていたが、もしかして空腹なのだろうか。こんなことなら自分用に作った昼食の残りでも出せばよかった。
「いえ、確か口にしたはずです。部下に買いに行かせたので」
「そうですか…」
ほっと息を吐く。
「じゃあ昨日のお昼は…?」
「昨日…」
また考え込む。
もしかして食に拘りないのだろうか。
「すみません。朝食と夕食は思い出せるんですが、昼食は…」
「え?朝食と夕食は思い出せるんですか」
「夕食はにくじゃがでしたよね」
「その前の日は」
「ビーフシチュー」
「その前の日は」
「豆腐ハンバーグ」
すらすらと答えられる。
「じゃあ、その日の昼食は」
「昼食…。それが全く記憶になくて」
昼食だけ忘れることってあるのだろうか。彼も思ったのかうーんと考え込む。
「い、いえ。ちゃんと食べているならいいんですけど」
「正直、イルカの料理以外あんまり何かを感じることないんですよね」
さらっと言われたが、それは最強の殺し文句ではないか。
かあぁぁと頬が赤くなる。
「お、俺の料理なんて素人ですよ」
「そんなことないですよ。食べやすいというか。オレなんか料理できませんし」
「俺は施設で習ったんですよ。いかに安く大量に食べるか毎回考えていました。施設の畑に大根つくってそれをおでんの具にするんです。野菜嫌いの子でもそれだけは美味しい美味しいって言いながら食べてくれるんですよ」
途端カカシさんは無表情になる。
彼は施設の話を嫌う。直接言葉では言わないが無表情で刺すような目をする。
「だ、だから期待してください。安くて美味しいおでんつくりますよ」
避けていたのに無意識に出てしまい、慌てて話題をそらす。すると無表情がふっと解ける。
ほっと息を吐くとそっと抱きしめられた。
「カカシさっ」
「オレのいない世界なんて忘れてください」
それだけいうと俺が手に持っていた鍋を持ち、かわりに手を繋いだ。
もしかして施設にあんまりいい印象をもっていないのだろうか。
そんなことを思いながら彼の横顔を見た。






鍋を抱えて帰ろうと百貨店の1階へと降りる。1階はブランド物や化粧品などの店が並び女性客でごった返していた。
ふと目の前のブランドショップから一人の美女が出てきたかと思うとこちらをみてパッと顔を輝かした。
えっと思った瞬間こちらに走って近づいた。
「カカシ!」
当然のように彼の隣に並ぶ。あまりに自然すぎて呆然とする。
「あぁ」
彼女は嬉しそうなのに反してカカシさんはどうでもよさそうに返事した。
「何?買い物?事務所行ってもいなかったから一人で来たのに、買い物なら付き合ってよ」
「またな」
そっけなく言われてもいつものことなのか軽くかわしながら彼の腕に抱きついた。
途端、頭から冷水をかけられたような気がした。
「あ、れ?もしかして連れの人いた?」
「じゃなきゃオレがこんなところ来るわけないだろ」
鬱陶しそうに腕を振りほどく。
少しも嬉しそうではない彼の表情にどこか安心した。
美しい人。
長い黒髪がふわふわと揺れ、大胆に胸元があいた赤いワンピースがよく似合っていた。

お腹が少し膨らんでいても。
どこか神秘的で、美しい。

彼と並んでも引け目を感じない。
ドキドキと嫌な動悸がした。
「イルカ」
名前を呼ばれて顔を上げる。
彼は無表情で、彼女は上機嫌だった。
彼女を背に、こちらを向いた。
向き合っているのは俺なのに、彼女との距離が縮まったその光景が落ち着かせない。
彼が決定的な言葉を言う、そんな気がした。
まだ、なにも準備できていないのに。
俺はまだ、現実に向き合う心の準備をしていないのに。

「これ、オレの婚約者」

目の前が真っ白になる。


「これってヒドイ」
「これで十分だろう」
「何買ったの?」
「鍋」
「鍋!?アンタが!?」
二人の会話がどこか遠くで聞こえる。
二人がまるで夫婦漫才をしているのを呆然と見守る。そこには誰も入り込めない特別な雰囲気を纏っていた。
彼が婚約者ぐらいいてもおかしくないだろう。
助けてくれたから。
5億の負債を肩代わりしてくれたから。
毎晩俺のいるマンションに来てくれたから。
毎晩セックスするから。
優しくだきしめてくれるから。

だからって、彼は俺のものじゃない。

彼の世界はあのマンションの一室だけではない。あんなの彼の世界の一部だ。
例え、あのマンションの一室が俺の世界の全ても。

「お前でかい腹でうろうろするなよ。危ないだろ」
「平気よ。多少運動しなきゃいけないって医者からも言われているし」
いたずらっぽく笑う。
子ども。
そう、婚約しているのだから彼の子だ。
だから彼は俺のところにくるのだ。
彼女を抱けないから。
どうしてショックを受けている。
優しくしてもらったから?彼しか抱かなくていいと言われたから?

だから好かれているとでも思ったのか。

「ねっ、ね。それより、そちらどなた?」

彼女の表情は嬉々としている。なんの曇りもない。
彼女は知っているのだろうか。
婚約者の彼が俺を抱いていると。
毎晩毎晩俺のいる部屋に帰ってくることを。
言ってしまいたい。
そして激怒して失望して、そして彼を嫌いになって婚約なんて破棄してくれればいい。
そう一瞬でも思ってしまい、酷く惨めな気分になる。
俺はバカだ。
大バカだ。
彼は彼女の問いに何も答えない。
当たり前だ。
この関係に名前なんてない。
自分のお気楽さ加減にほどほど泣きたくなる。
答えない。
それが全てだ。
愛人とも性欲処理でも、ただの負債者とも呼んでくれない。
俺たちの関係に意味なんてない。
酷く笑いたくなった。
彼に対する独占欲が溢れ出そうになり、それを一生隠さなくてはいけなくなって初めて気がついた。
いや、気がつかないように目を逸らしていた。
自覚した瞬間、きっと何もかもダメになると思っていた。
彼との関係も。
自分の心も。
だが、今はっきりと目の前に提示された。

その人は、俺のものだ。

彼は結婚するのに。こんな美人な人と。もうすぐ生まれてくる可愛い子どもに囲まれて、幸せになるのに。
俺はその何一つ彼になにも与えられないのに。
なのに俺の頭は彼女からどうやって彼を奪うか、それだけしか考えられない。
どろどろと汚い感情が全身を這いずる。
ずっとずっと隠してきたきらきらとした大事な大事な感情が、どす黒く変わり、醜く俺を支配する。
こんな感情いらない。
泣きたい。
俺と彼の間の関係に名前など知らない。
だがこの醜い感情の名前は知っている。
こんな風に現される感情ではないはずなのに。
俺はそれを知ってはいけないのに。

こんなの愛なんかじゃない。



恋とは呼べない。


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