イルカに会わなくなり一週間が過ぎた。
二回ほど、メールが来た。
返さないと失礼だと思ったが、なんて返したらいいか分からなかった。だが、もう会わないという連絡も、着信拒否も、アドレスを消すこともできず、いい加減な決心をだらだらとしていた。
彼から、メールが来たときは心が震えた。
すごく嬉しかった。
彼がオレのことを気にしてくれているのが嬉しかった。
彼の心に少しでもオレの存在があるのが嬉しかった。
だけど彼に会ったら、またあの夢を見る。
あの恐ろしい夢を。
そして段々と愛しい人の夢を浸食され、いずれは消されてしまう。
それが、恐くて堪らない。
そうなるぐらいなら、彼には会わない。
なのにそのつながりを全て消すことはどうしてもできなかった。
(矛盾しているな・・・)
自分の気持ちは矛盾だらけだ。
彼女が一番だと言っておきながら、それに一番近い人を遠ざけ。
イルカのいない生活が平和で穏やかなのに、物足りなさを感じている。
そしてこんなにも彼のことで頭がいっぱいだ。
彼のことしか考えられない。
(ダメだなぁ・・・)
ボンヤリと外を見る。
この時期は日が暮れるのが早くて、辺りは真っ暗だ。
見上げる空は曇っていて、何も見えない。
『カカシさんとこの空見たくて、誘おうと思ったんです』
あの日は珍しい流星群が来ていると彼が笑いながら話してくれた。
流れ星が見れるかもしれませんよ。
そんなロマンチックなことを言う彼にドキドキした。
オレと彼を明るく照らし、導いてくれているのだと感じたのに。
この空はまるでオレの心境のようだった。
もやもやと、なにも照らしてはくれない。
どこへも導いてくれない。



自宅で寝るのが恐くて、彼女の家で寝泊まりしていたが、正直服がなくなり、いったん帰ることにした。
服を詰めていると、チャイムが鳴った。
でてみると彼女だった。
「カカシの様子が変だったから心配で」
今日は遅くなったから着てくれたのだろう。愛しいと思わなくなった彼女だが、その優しさには素直に感謝した。
だが、彼女の狭い部屋が好きだった。
2DKの狭い部屋は、愛しい人の部屋に似ていて安心できた。
だが来てくれたのだから、ここから彼女の家にいくのも躊躇い今日はこちらで過ごすことに決めた。
意気揚々と料理をする彼女を眺める。
あぁ、なんだか安心する。
ニコニコ笑って、オレを拒まず受け入れてくれる存在が心地良い。
(そうだよ、なにも彼女でいいではないか)
男で、10才も年下で、そんな障害だらけの関係より、今の方がずっと楽で平和だ。
なにも悪くはない。
ふらっと立ち上がり、彼女を後ろから抱きしめた。
「なに、カカシ。お腹すいたの?」
「うーん」
もぞもぞと彼女の体を触るとくすくす笑いながら手を握られた。
そのままキスする。
「危ないから、また後でね」
そう言ってキッチンから追い出された。
なんだか新婚っぽくて嬉しくなった。
ボンヤリとテレビを見ているとまたチャイムが鳴った。
「はーい」
インターホンに近い彼女が出る。
何だろうなぁ。何か頼んだっけ?と考えると名前を呼ばれた。
「海野さんって高校生来てるけど、知り合い?」
ドキッとした。
まずい、何てタイミングだ。なんで彼女を出させたんだ。
彼女を押しのけ、インターホンの前に立つ。
カメラから映し出される彼は、無表情だった。
まずい、まずい。弁解しないと。
「イルカ、ちょ、ちょっと待ってて」
『いえ、いいですよ。返事が返ってこないからどうしたのか気になっただけですから』
帰ろうとする彼を呼び止める。
「すぐ、すぐ行くから!」
手近な靴をひっかけてエレベーターの前に立つ。中々こないのをじれったく思う。
なんでここは最上階なんだ。早くしないと彼が帰ってしまう。そうすればきっともう会うことすら叶わない。
ゆっくりゆっくり進むエレベーターをドンと殴り、階段に向かう。
一段一段下りる度に彼の顔が浮かぶ。
今どんな顔をしているのだろうか。
怒っているだろうか、呆れているだろうか。それとも悲しんでいるだろうか。
何て言おう。メール返せなくてごめん、仕事が忙しくて。さっき出たのは何でもないんだ。ごめん。ごめん、ごめん。
ぐるぐると螺旋階段のように終わりのない謝罪が浮かぶ。
一階に下りたとき、彼は先ほどと一切変わりない無表情で立っていた。
「ごめっ、イルカ・・・」
はぁはぁと息をきらすオレに近づく。
「階段で下りたんですか?」
「エレベーター、来なくて」
そう言うとはぁっとため息をついた。
「そこまでしなくても、インターホン越しでもよかったですよ」
「そうじゃない、待ってイルカ」
「彼女、なんでしょ?」
当然のように言った。
返す言葉もない。
その通りだ。取り繕うこともできない真実だ。
「それで良かったと思いますよ。貴方は俺のことになると人が変わったようになるから。貴方は本当は優しくて穏やかで繊細は人です」
そう言って、にっこりと笑った。
笑った。嘘のない、綺麗な笑顔だった。
「貴方は俺がいない方が幸せになれると思います」
そんななんでもわかっているかのような言葉だった。
オレがずっと抱えていた気持ちだったが彼から言われるのはひどく傷ついた。
ちがうちがう、そうじゃない。そうじゃないんだ。
「すみません、俺声かけなければよかったです」
頭を下げる。
ちがう、なんで分かってくれないんだ。
そうじゃない。
早く何か言わないと、完全に誤解されている。
イルカ、オレ見て。オレを見てくれ。
顔を見れば分かるだろう。あんたならオレの本当の気持ち分かってくれるだろう。
「約束は無効です」
「イルカ・・・」
なんて情けない声だろう。
そんな弱々しい声では何も伝わらない。
「もう関わり合うのは止めましょう」
まっすぐオレを見た。
真っ黒なその瞳は、何も映してなかった。暗い暗い暗闇が広がっていた。
もうあの瞳に、オレが映ることは叶わなくなったのだとボンヤリと思った。
「さよならです」
そう言って、また頭を下げてしっかりした足取りで出て行った。
オレはボンヤリとそれを見送った。
心にぽっかりと穴が空いた気分だ。
どこかで望んでいた結果だった。こうなればオレは平和な生活を送れる。オレの中にある激情を呼び覚ますことなく優しい人間になれる。
大事な愛しい人を失われずにいれる。
それなのに、どうして。
どうしてオレは泣いているんだろう。
(寝よう。彼女に会いたい)
この思いを消してくれるのは、愛しい彼女だけだった。




目を開くと愛しい人が受付に座っていた。
彼女は仕事が早く丁寧なのでとても人気で、いつも長座の列をつくる。それでも気にせず、オレは一番後ろに並ぶ。
「お疲れ様です」
オレの前の男にもいつもの笑顔で接する。
「今日終わるのいつ?飲みに行かない?」
あぁ、オレと付き合っているのを知らないのか、付き合う前かは分からないが、よくもまぁオレの前で言えるものだ。どうしようか考えていると彼女は困ったようににっこりと笑った。
「ごめんなさい。今日は残業なので」
その笑みに癒された。
そうか、まだ付き合っていないころだ。付き合っているころはオレの名前をだして断るようにしていたから。それでも人気だったけど、フリーのころは良く声をかけられていた。
だが、嫉妬なんてしない。付き合ってからも誰と話そうが嫉妬なんてしたことがなかった。それこそ人目を憚らず殺気だったりしない。
だってオレは彼女を愛しているし、信じている。
その矛盾に疑問を感じた。
そういえば、彼女とケンカしたことはない。
彼女の行動に不満を持ったこともない。
怒りも悲しみも感じたことはない。
いつだって幸せでぬるま湯みたいな世界だった。
でも、現実はそうではない。
ぶつかり合って、話し合ってそれでお互いを分かっていくんだ。違う人間だからこそ、同じ気持ちになったとき感動するんだ。
まるで面白味のない映画のようだった。
ただ幸福なシーンを永遠と繰り返していくような感じだった。
これは前世の記憶ではない。
感触はあるが、現実味はない。こんなにもリアルなのはそう思い込む異常な想いだと感じる。
(ちがうちがうちがう)
これは本当はただの妄想ではないか。
こうなりたいと願うだけの愚かな夢ではないか。
現実ではあり得ないことを、それを見ないための厚い壁。
(ちがうちがうちがうちがう)
不思議そうにこちらをみる彼女に手を伸ばす。
彼女はゆっくりとオレを抱きしめてくれた。
それなのに熱を感じない。

そうだ、彼はこんな風に抱き返してはくれない。





目が覚めるといつもの天井だった。
薄着で寝ていたので、ひんやりとした部屋の空気が熱を帯びた体に心地よかった。
隣に黒髪の人が寝ていたが、触る気にもならなかった。
何も考えないように、ベッドから下り、支度する。
考えたくない。何も考えたくない。
感触も何も覚えていないが、殺伐とした喪失感だけはやけにリアルに感じられた。

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