俺は貴方に何ができるのだろう。
玄関の扉を閉めると彼の体を掴み、キスする。
慌てる彼を気に留めず、何度も何度も。
「イルカ…」
熱に魘されているかのような声で俺の名前を呼ぶ。それがたまらず嬉しくて、口づけと共に彼の服を脱がす。
一瞬吃驚されたが、彼も同じように俺の服に手をかけた。
お互い性急で余裕など一切ない荒々しい動作だったが、それだけ彼が俺に夢中なようで嬉しかった。
靴もろくに脱いでいない。
シャツのボタンは弾け飛び、ズボンも下着も足に引っかかったまま。
お互いそんな恰好で、広い玄関の冷たい床の上で俺は彼に乗っかった。
ろくにほぐされていなくきつかったが、それでもよかった。
彼自身はいつものように固く脈打っていたし、それを体内に入れた瞬間、安堵とも快楽とも呼べる熱い吐息を吐いてくれた。
彼は間違いなく俺を欲している。
俺に対して欲情している。
「はぁ…っ、う、ぅんん……っ」
ゆっくりと腰を上下に動かす。
何度か繰り返しているうちにくちゃくちゃと濡れてきて動きやすくなる。
彼の冷たく長い指が、俺の腰に食い込む。
「丸見え」
クスッと笑われた。
「ろくに触っていないのに後ろは簡単に飲み込んじゃうし、前はカチカチだ。…っ、ああほら言われて喜んだ」
「い、言わないで…っ」
はっはっと浅く息を吐きながらとても嬉しそうな声が下から繰り返される。
初めての体位なのに、ひどく興奮していた。
「ほら、動いて」
ぺちぺちと尻を叩かれて思わずギュッと力が入った。
「っ、…尻叩かれて感じたの?」
「っちが」
パシッとさっきとは異なる痛みが走る。
「あぁぁ……っ」
痛いのにひどく感じるのはなぜだろう。
「へぇ、イルカはこんなのも感じるようになったんだ。ハジメテは触るだけであんなに震えていたのに」
クスクスと笑いながら尻を撫でる。冷たい言葉なのに声はどこまでも優しかった。
「でも痛いのは可哀相かな。あぁ赤くなってきちゃった」
痛い?と聞かれて首を横に振る。痛感などなかった。ただそこが熱くて堪らなかった。
「痛いのは止めようね。せっかくイルカから誘ってくれたんだから今日はひたすら気持ち良くしてあげる」
そう言いながらはだけた胸へ口づける。
見なくても分かるほど乳首は赤く熟れていた。それを愛おしそうに眺め、噛んだ。
「―――っあぁ」
強い刺激に思わず彼の背中に力を込めた。
瞬間、嫌な感触がした。
慌てて手を見ると爪先がうっすらと赤くなっている。
引っ掻いてしまった。
「ごめんなさっ」
「いいから」
慌てて放れようとすると抱きしめられ、思わず下半身に力が入った。
「そんなことどうでもいいから」
「でも」
跡が、残ってしまう。
こんな傷誰でも性交の跡だと分かってしまうのに。
あの、婚約者にも。
(ちがう)
わざとではない。本当に、無意識だった。
だが、今までだってこれ以上の行為を繰り返していたのに、一度も彼の体に跡など残したことはなかった。
(ちがう、ちがう)
彼女に分かってほしいのか。
彼が俺と抱き合っていることを。その証拠を見せつけて別れさせようとしたのか。無意識に。
さぁっと頭から血の気が下がる気がした。
なんて欲深い、浅ましく醜い行為だろう。
こんなことして彼を陥れてそれで満足なのか。
そうして彼女から奪って、俺が彼女以上に彼を幸せにできるのか。
美しくもない。同性だから結婚も子どもも望めない。あるのは借金だけ。同じ土俵に上がることすら儚い夢でしかない。
俺の浅はかな行動は彼を不幸にすることしか繋がらない。
(こんなはずじゃなかったのに)
ただ、施設を救いたかっただけだ。
そのために俺に道を作ってくれた彼のためにできることを誠心誠意尽くそうと思っただけだ。
それなのに優しい彼に絆され、浅はかな想いをよせるなんて彼にしてみればいい迷惑だ。
そんなこと、彼は望んでいない。
彼が望んでいることは、ただの性欲処理だ。
妊娠中で抱けない彼女の替わり。
少し抵抗のある性癖の捌け口。
そんなの十分すぎるぐらいわかっているはずなのに。
だから彼の望む通り抱かれようとしているのに。
無意識に、自分の跡を残した。
無意識なんて、酷い言い訳だ。
心の奥底に望んでいたからこそしてしまったに過ぎない。
「ごめんなさい…っ」
溢れでる涙を見られたくなくて俯く。こんなことしてしまえば興醒めだ。萎えるに決まっている。本末転倒だ、何やっているんだよ。
ひたすら頭の中で罵倒しても、涙は止まってくれなかった。
「イルカ」
両手で顔を包みこむ。あんなに冷たかった掌がじんわりと熱くて心地よかった。
「傷なんてどうでもいい。イルカがほしいなら指だって詰めてもいい。だから泣かないで」
優しく涙を拭う彼に縋りたくてたまらなくなる。
「あぁ可愛い。イルカ…」
うっとりと呟くと、手を腰に回す。
そのまま上下に揺らした。
「あっ、ああぁ…っ」
「ほら、しがみついてないと落ちちゃうよ」
そう言われて再び彼に抱きつく。
そして俺も腰を揺らした。
「そう、上手。もっと動いて。イルカの好きなトコいっぱいあてて」
「ぅ、ん…っ」
そこから一心不乱にただ腰だけを動かした。
彼のモノが熱く膨れてナカに注ぎ込まれるまで、何度も。
「カカシさん、カカシさ…っ」
「イルカ」
彼の名前を呼べば、大きく動けば、彼は何度も俺の名前を呼んでくれる。
彼が抱いているのは自分だと、そう教えてくれるように。
彼が快楽を感じるのも熱を感じられるのも、そんな幸せそうに愛おしそうに見つめられるのも、全部俺だと。
一瞬でいい、勘違いさせてくれる。
お互い吐き出すと、俺も彼もぎゅっと力を込めて抱きしめてくれる。
まるで世界にたった二人しかいないような、そんな力強い抱擁だ。
「イルカ」
満足そうに、だが目の先にはまだ欲情を残して。
汗でドロドロになった髪をかき分け、額にキスしてくれる。
抜かないまま抱き上げられて、ベッドに向かう。
覆いかぶさる彼の首に抱きついた。
俺にできることは彼の熱を吐き出させることだけだ。
「カカシさん…」
煽るように彼にキスをする。
それだけで穏やかな彼の目が、ギラギラと鋭い光を発する。
「可愛いよ、イルカ…」
ちゅっちゅと体中を愛撫してくれる。それに応えるように声を上げ、股を開く。
彼が望むのならどんなはしたない真似でもできた。
「イルカ」
彼が入れやすいように足を広げ見せつけるかのように腰を上げた。
彼は満足そうに眺め、舐め、突っ込む。
何度出しても熱を失わないソレをゆっくりと埋め込んでいく。
彼から吐息が漏れた。
イルカイルカと耳元で何度も呼ばれその度に俺も彼の名を呼んだ。
「イルカ、ずっと一緒だ」
熱に魘されたような甘い囁き。
うそつき。
うそつきうそつき。
アンタも俺を置いていくくせに。
俺を一人にするくせに。
.
**
卵を水の入った鍋に入れ、米のとぎ汁の入った鍋には大根を入れる。その二つに火を入れて、他の材料を切っていく。
新しく買った鍋にどんどん材料を入れていく。まだ新しい鍋はピカピカと光っている。
これを買いにいかなければ、俺はまだ優しい夢に浸って入れたのかな。
そんな無駄なことを思う。
あのとき知れなくてもいつか、そう遠くない未来にきっと知ったはずだ。むしろ早く知れて良かったではないか。俺のキモチワルイ感情を彼に押しつける前に。顔を赤らめて彼に自身の想いを吐露するのを想像して気持ち悪くて吐きそうになる。
周りから俺は鈍い鈍いと言われてきたが、それで本当によかった。もっと早く自分の気持ちに気付いていたら、そして何かのきっかけで彼に伝えていたら、取り返しのつかないことになるところだった。
だから良かった。ナイスタイミングだ。
沸騰してきた鍋の火を弱めて時間を計る。
よくよく考えたら彼は俺の初恋になるのだ。
今まで人と深く付き合うのを避けていたので、こんな状況になりどうしていいか分からない。相談できるほどの相手もいない。頼れる親もいない。
(俺には施設だけだったのに)
親がいたときの生活はぼんやりとしか思い出せない。
どこに住んでいたのかも何をしていたのかも。かろうじて遺品は残っていたが写真以外ほとんど親戚にとられてしまった。
俺の思い出は施設の生活しかなかった。
あそこはよかった。毎日忙しくて余計なことを考える暇などなかった。万年経営難なので職員も少なく年下の相手は専らイルカの仕事だった。また器用だったので料理や裁縫など自主的に行っていた。
何十人の料理は材料が少ないこともありいつも悩みの種だった。畑仕事も勤しんだ。
同じ境遇の子どもたちと身を寄せ合い常に誰かそばにいてくれた。寂しさなど感じなかった。
親を亡くした時、俺の心はぽっかりと空いてしまった。その隙間を埋めるのに特定の人間を入れるのは止めた。
大切な人ができてしまうと、その人をなくすともう自分は立ち直れないと分かっていた。
だから心のよりどころを施設にした。
ここならなくならない。
俺のもとから消えることなんてない。
施設さえあれば俺は一人ではない。
そう思っていたのに。
現実はあっさり俺から奪おうとした。守れたとは思うが見に行けないのは寂しい。
今どうなっているのだろう。
誰一人と欠けることなく生活できているのだろうか。
あれ以上貧困していないだろうか。
寒さに震えていないだろうか。
できることなら行ってやりたい。
そして俺のもとからなくならないのだと証明してほしい。
***
ガチャっと玄関が開く音がする。
まだお昼過ぎだ。こんなに早く帰ってくるのは久々だ。
「おかえりなさ……」
玄関に出迎えに行くと、予想しなかった人物が立っていた。
「あら?貴方…」
そこにはあの時の女性だった。
彼の、婚約者。
途端どす黒いモノが全身を駆け巡った。
なんでここにいるんだ。
ここは、仕事部屋だ。
ここは、彼と俺のーーーー。
「紹介されなかったけどカカシの部下の人なのね?」
そう言われて、声を上げなかったことを褒めてやりたい。
違う、俺はあの人と寝てるんだ。昨日だって、一昨日だって彼はここに来て俺の作った料理を食べて、俺を抱いてるんだ。あんたじゃない。彼の隣にいるのは俺なんだって。
でも言えない。
惨めになるだけだ。
言ったところで鼻で笑われる。
じゃあ子どもでも身籠ってみればと言われたら発狂しそうだ。
「えぇ、まぁ、はい…」
「彼に貸したものがあって取りに来たんだけど、どこかしら……」
そう言って部屋中を歩き回る。
俺は見ないように見ないように俯き、立ち尽くした。
早く出て行ってくれ。
俺の中のドロドロが出てくる前に。
ゴボッと音がして慌ててキッチンに行き、火を止める。
あぁこの状況はまるで俺のようだ。
いずれこうやって吹き零れてしまう前に、火を止めないと。
「あらいい匂い」
くんくんと鼻で嗅ぎながらキッチンにやってきた。
「わぁすごい。これ、貴方が作ったの?」
「…えぇ。たいしたことありませんが」
「そんなことないわ。すごーい」
裏表なく話す彼女は美しい外見に似合わず子どもっぽかった。可愛らしい笑顔にこのギャップがいいのだろうと思う。
「ねぇ、少しいただいてもいいかしら」
「勿論です。取りましょう」
「本当!じゃあ大根と卵とはんぺん。こんにゃくは二個ね!あと厚揚げと、わっ、ロールキャベツ!すごーい」
無邪気に褒められ、思わず嬉しくなる。
皿いっぱいに入れるとくすっと笑われた。
「普段はこんなに食べないのよ。今は二人分食べなきゃいけないから」
言い訳のように少し照れながら言う様子が可愛らしい。
外見はとても美しく冷たい印象だったのに中身はこんなに可愛らしい。そして俺みたいな人にも優しくしてくれる。
イイ人なのだろう。
彼が選ぶのだから、当然だ。
「体調は、大丈夫ですか?」
「えぇ。お腹がすくぐらいかしら。もう本当ずーっと空腹な気がするの」
そう言いながらお腹を撫でる。
そこには彼との新しい命がいる。
愛の結晶だ。
「ねぇ、このレシピ教えてくれる?」
「たいしたことはないですよ」
「いいの。あの人こういう味好きだから」
ふわっと彼を思って笑うその笑みはとても穏やかで美しかった。
あぁ、彼のことを本気で愛しているのだろうな。
なんの迷いもなく、誰からも反対されず幸せになるのだろうな。
ぎゅっと唇をかみしめる。
幸せな顔を見るのはとても好きなのに、俺はそれを壊したくて堪らなかった。
壊すのは、一言でいい。
一言俺との関係を匂わせれば賢そうな彼女の事だ、きっと理解する。
言ってしまえ。
壊してしまえばいい。
そうすれば、彼は俺のモノになる。
「あの…っ」
レシピを書いたメモを持ちながら彼女が見上げた。
「さ、最近カカシさん帰ってきてますか…?」
否定されるのを前提とした問いだった。
だって彼はここに毎日帰ってきている。あんたの所じゃない、俺のところに。
「いいえ」
案の定否定されて、心が晴れやかになる。
そらみろ。
どこに来ているか教えてあげようか。
彼は俺のところに来ているんだ。
俺を選んでくれているんだ。
そう言いたくて堪らなかった。実際口は笑みを浮かべていただろう。
だが彼女は少しも取り乱さず、さも当然のように髪をかき上げた。
「まっ、昼間来てくれているから別にいいんだけど」
見事なカウンターだった。
俺はその言葉に固まった。
べつに夜に会えなくても関係ない。
会えるのは何も夜だけじゃない。
妊婦なのだ、早く寝ないと体に悪いのだろう。だから夜は遠慮して昼に会っていた。
そう言えば彼はいつも帰りが遅い。
深夜に帰ってきて明け方には出ていく。
まるで抱きに来ているだけだ。
(俺、馬鹿だ…)
そんなことで優越感に浸っていたなんて。
本当、ただの馬鹿だ。
「紅さんっ!!」
玄関から叫び声がしたかと思うと彼の部下だと言っていた見たことのある男が勢いよく入ってきた。
「あら、ヤマト」
「紅さん、マズイですよ。ここには誰も立ち入らないようにってはたけさんが」
ぐいぐいとひっぱりながら紅と呼ばれた彼の婚約者を連れ出す。
「あら、でも彼が」
「彼がイルカさんですよ。いいから早く」
「そうなの?私フォローしたほうが」
「いいから。イルカさんすみません」
「あっ、ちょっと待ってください」
出ていこうする二人を呼び止め、タッパーにおでんをつめる。
「これ、よければ」
渡すと嬉しそうに受け取った。先ほどの失言を謝罪の替わりのつもりなので、それがなんだか罪悪感でいっぱいになる。
彼女にしてみればあんなもの失言だとは思ってもいないとしても。
「あの、ヤマトさんも…」
「えっ、僕もですかっ」
たいしたものではないのに、二人の喜びように面を食らう。よほど家庭料理に飢えているのだろうか。
二人を送り出し、玄関が閉まると、そのまましゃがみこんでしまった。
「……っ」
じわっと涙があふれる。
醜い醜いこの心は日増しにひどくなっていく。
彼女はあの傷を見ただろうか。
ボンヤリと思う。
あの傷を見て、彼はどんな言い訳をするのだろう。
深夜になり、彼が帰ってきた。
「おかえりなさい」
「…はい」
出迎えた俺をぎゅっと抱きしめる。彼の匂いに、少し冷たい体温に包まれて思わずうっとりとする。
がさっと音がして彼の腕をみるとビニール袋を持っていた。
「あの…」
「昼間、あいつらが来たでしょう」
そう言われてドキッとする。
何か悪いことを見つかったみたいに冷や汗をかいた。
もし。
もし、あの失言を彼に言われていたらーーー。
そう思うと頭が真っ白になる。
身の程知らずと罵られたらどうしよう。
暗に俺との関係をばらそうとしたと知られたら。
そしたら間違いなく切られるのは自分だ。
5億を払ってまで手に入れた俺でも、彼女と比べれば間違いなく俺は切り捨てられるのに。
あんなこと言うのではなかった。
言っても傷ついたのは俺だけだった。
彼と彼女の固い絆の前に俺はなすすべもないのに。
「うるさくして、すみません」
彼は険しい表情で言った。
「いえ…」
「ここには近づかないよう言っていたんですが」
はぁっとため息をつき、ぶら下げていたビニール袋を持ち上げた。
「こういうこと、しなくていいです」
見るとそこにはタッパーが二つ入っていた。
二人に渡した、おでんを入れたタッパーだ。
「あの、それは……」
昼時だったのでよければと思ってしたが、余計なお世話だったのかもしれない。
もしかして嬉しそうにしていたが、実は口に合わなかったのかも。
サーッと自分の軽率な行動に泣きたくなる。
どうして上手くいかないのだろう。
「もう二度としないでください。勿体ない」
そう言ってタッパーをごみ箱に捨てた。少しピリピリしている気がする。
怒らせたと思ったが、「勿体ない」とはどういう意味だろう。
もしかして、おでんを取られて怒っているのか…?
なんだか子どもっぽくて思わず小さく噴き出した。
「…なんですか?」
複雑そうな顔をしている彼が、なんだか子どもっぽくてーー大好きなお菓子を取られた子どもみたいで、笑うのを止められない。
「おでんならたくさん作りましたから」
笑いながら言うと、ムッと顔を顰めてガシガシと頭を掻いた。
「いえ、そうじゃなくて」
うーと唸る。
「貴方の料理を、オレ以外に食わせないでください」
え?と思っていると、抱きしめられキスされた。
少し赤い顔にそれはどういう意味か聞くのを躊躇った。
俺の勘違いでいい。
それは独占欲ならいいのに。
ちゅっと音を立てて離れると、まだ複雑そうな顔をしていた。
なにか嫌なことでもあったのかな。
弱く抱きしめ、背中を撫でる。
彼は小さく息を吐き、されるがまま俺に抱きついた。
「誰にでも、優しくしないで。イルカはオレだけのことを考えていればいいから」
それは俺に言うというより、願望のようだった。
返事の代わりに一度強く抱きしめる。
俺の頭の中は貴方だけですよ。
言えない言葉を何度も心の中で呟く。
俺は貴方のモノです。
抱きしめ、背中を撫で、時にはキスをし。
言えない言葉を何度も心の中で呟いた。
視界の端に、捨てられたタッパーを見る。
やっぱり。
やっぱり貴方は昼間に、彼女と会っているのですね。
****
「あっ、醤油がない」
火にかけていた鍋を一度切り、部屋中探すがやはりない。
買おう買おうと思ってつい忘れてしまった。
「うーん。ないとできない、よなぁ」
さすがに調味料は代替えできない。
仕方ないとエプロンを脱ぎ、財布を持つ。
一体どこ産のバカ高い醤油を買わされるのだろう。
すっかり行かなくなった近所の高級スーパーへ向かう。
相変わらず人は多い。
(こんなところで買うぐらいなら食べに行った方が安くないか…?いや、そりゃ作った方が健康的なのだろうが)
だからってピーマン一個に四百円はないだろう。
調味料エリアに行くとめあての醤油があった。ドキドキしながら値段を見るとそんなに高くない物があり、ほっとする。勿論高いものはどうどうと陳列されていたが。
会計を済まして店を出る。
「―――イルカ?」
不意に名前を呼ばれて振り返ると知り合いが立っていた。
「ミズキ?」
あの施設の職員で幼馴染のミズキだった。
「お前、元気だったか」
久々の再会に嬉しくて近づく。
「元気かって、お前何してたんだよ」
「何って」
「会社に行っても辞めたっていうし、アパートも引っ越し済みだったし」
「あ、それは…」
施設の借金を返すためだが、そんなこと正直に言えない。
ごもごもと口を動かすと焦れたようにミズキが腕をとった。
「お前、施設が大変なことになっているのに何やってるんだよ」
「……はぁ?」
思ってもみない言葉に一瞬頭が真っ白になる。
施設は俺が借金を肩代わりしたはずだ。
あれから一度も訪れていないが、確かにカカシさんが約束してくれた。
だから俺はここにいるはずだ。
「施設って、…借金なくなったんじゃねーのかよ」
「んなわけないだろう。ほら、前から来ていた業者があっただろう?あそこに売られたよ」
「―――まさか…」
まさか。まさかまさか。
そんなはずない。
だって約束してくれた。カカシさんが。
「そ、そんなはずないっ!俺がお願いして、カ、はたけさんがっ」
「はたけ…?」
「5億の負債だったんだろ?俺が肩代わりするって、はたけさんと約束して、だから施設は」
施設は取り壊しにならなかったはずだ。
だって、そう約束した。
約束したんだ。
「―――個人が5億なんて肩代わりできるはずないだろ」
ミズキの容赦ない言葉に愕然とする。
そうだ。そんな金額個人がどうにかできるはずない。
しかもその条件が俺の一生だ。体中の臓器売ったって1億にもならない価値の俺だ。
それが、高々彼に抱かれるだけで返済できるって?
そんな上手い話、あるわけないじゃないか。
熱にうなされて盲目になっていた自分が、ようやく現実に直視した気分だ。
そうだ。そんな上手い話ない。
文書を交わしたわけでもない。
全部全部口約束だ。
だから彼は優しかっただろう?
嫌がるから他の男に抱かせなかっただろう?
もう少し稼いでやろうと思っていたけど嫌がったから自分の性欲処理にしたんだろう?いや、もしかして自分が飽きたらほかの奴に回すのかもしれない。
だって、彼はそういう仕事なのだから。
俺にそんな価値などないのだから。
「ど、どうしよう、ミズキ」
「落ち着け。とりあえず、場所をかえよう」
彼に連れられてもガチガチと歯が鳴り震えが止まらなかった。
どうしよう。
どうしたらいいのだろう。
施設はどうなったのだろう。
子どもたちはどうなったのだろう。
バラバラに引き取られたのだろうか。
彼らの涙顔が浮かび、泣きたくなった。
なんで気がつかなかったのだろう。
何を舞い上がっていたのだろう。
分かっていたはずだ。
分かっていて、現実を直視したくなくて、彼がくれる甘い生活に目を瞑り、流されていただけではないか。
だから一度も施設の話をしなかったのでは
現実を突きつけられるのが怖くて、聞かないことにして、それで救った気分に浸っていただけではないのか。
平凡な俺に価値なんてない。
そんなこと、分かっていたはずなのに。
泣きたい。
騙された、馬鹿な自分を罵って、泣き叫びたい。
近くにとめているという彼の車に乗る。
「いいか。今からアイツのマンションに行って、あの土地の契約書を持ってくるんだ。契約書があれば何とでもできるからな」
「お、俺はたけさんのマンションなんて知らない」
「何言っているんだよ、さっきあのマンションから出てきただろう」
そう言われて、ようやく気がつく。
あそこはヤリ部屋だと思っていたが、それにしては綺麗で高級すぎる。それに彼の書斎まであった。そうかあそこは彼の部屋なのだとようやく気がついた。
「本当に契約書持ってきたら、大丈夫なのか?仕返しとか…」
「大丈夫だ。信用できる弁護士見つけてあの土地を奪い返してくれるって。あいつらも元々違法まがいののことをしてるんだ。何にもできやしねーよ」
真剣な表情にほっとする。よかった。何とかなりそうで本当良かった。
「じゃあ俺とってくる」
「もし私物があるなら持って来いよ。あんまり多いと大変だけど」
「え…?」
思っても見ない言葉に思わず聞き返した。
「えって…、お前そのままそこに住めるわけねーだろ。報復されるに決まってるじゃん。しばらく俺の家に来いよ。少しなら養ってやるからさ」
冗談っぽく言われても返事ができなかった。
あの部屋から出る。
そんなこと考えてもいなかった。
だがこのままあのこに居続けることなどできない。
俺は大事な契約書を盗むのだから。
彼とももう会えない。
もう彼の顔も見れない。暮らせない。話しかけることも抱き合うこともできない。
―――良かったではないか。
いつか近い未来捨てられるのだから。
彼はあの女性と結婚して子どもが生まれて三人で暮らすに決まってるのだから。
俺が入る隙間などない幸せな家庭を築くのだから。
それを間近で見なくてすむ。
(そっか…)
騙されたと恨むべきはずなのにまだ心が追い付いていない。それよりそんな幸せな家族を見なくて済むという安心感しかない。
これでよかったのだと自分に言い聞かせる。
俺にできることは、施設を守ることだけだから。
*****
書斎には掃除と、食材を注文するためにパソコンを借りるためにしか入ったことがなかった。彼もここで仕事をしていることはほとんどなく、書斎という名の物置だと言っていた。
改めてみるとたくさんの本やファイルが並べられている。
どこを探していいか見当もつかないが、とりあえず机の上を漁る。業界用語が多く、どの書類を見ても何のものか見当もつかなかった。
ただ漠然とあの土地の名前を探す。
戻ったら何をしよう。
まずぼろアパートを探そう。できれば施設の近くがいい。帰り道でも見えるぐらい近場がいいな。
稼げる仕事ならなんでもしよう。
元々施設は経営難だったのだ。園長がいい人すぎて子どもをかたっぱしから引き受けていた。だがそのおかげで不自由なく生活できたのだから恨むつもりは毛頭ない。
お金なんてあればあるだけいいだろう。我武者羅に働いて働いて考える暇もなく働こう。
そう前と同じだ。
何も変わらない。
俺の相応しい世界に戻るだけだ。
「書類なら、一番上の引出しの中ですよ」
聞きなれた低く鋭い声が後ろから聞こえた。
まさか、こんな時間に帰ってくることなどなかったのに。
それよりもなぜ書類を探しているのを知っているのか。
嫌な汗が流れる。
「最もそんな書類だけで何かできるわけでもないですけどね」
クスクスと笑いながら近づいてくる。
「鬱陶しいハエが飛んでいるなぁとは思ったのですが、まさかアンタのところへ行くとは思いませんでした。頭のいいハエですよね?アンタからのお願いならオレは逆らえないから」
背後から抱きしめられ、俺の首元に顔を埋めた。
「それで?アンタはオレを捨てて、彼と愛の逃避行ですか」
ちゅっと強く吸われる。唇は冷たいのに、彼から与えられた刺激は熱かった。
ガチガチと歯が鳴った。
「し、施設が…っ」
「オレはきちんと買い戻しました。オレの言葉よりあいつの言葉を信じるの?」
そう言われて確かに彼の言葉ばかり鵜呑みにしていた。だがミズキが嘘をつく意味などあるのだろうか。
「施設に行かせてください。見るだけでいいんです」
「施設施設、アンタはそればっかりだな」
吐き捨てるように言うと彼が離れていった。寒さではない何かにぶるっと体を震わせる。
「施設を救えるならオレでなくてもいい。オレでなくても誰でも良かった。救ってくれるなら誰にでも抱かせた。オレが一番先に救ったからアンタはオレのそばにいてくれる、それだけだ」
独り言のようにブツブツと言う。
「オレは契約しなければアンタに触れられない、そばにいさせてもらえない。その権利を他の奴に渡したら、オレはアンタに見向きすらされなくなるんだな」
「カカシさん……」
彼の言葉は届かない。彼も俺に言っているのではなく自身に言い聞かせるように呟いた。
机の上にある書類を力任せにはらった。まるでぶつけようのない怒りを紛らわすかのように。それだけでは収まりきれず、手にあるものを投げ飛ばす。整理してあったものがぐしゃぐしゃになりながら宙を舞う。
初めて見る彼の荒々しい姿に俺はガタガタと震えることしかできなかった。
彼の怒りをかった、それだけは確かだった。
鋭い目で彼がこちらを睨んだ。
「誰が手放すか。施設がこっちにある限りアンタはオレのモノだ…っ」
手近にあった物を粗方放り投げるとふぅうっと大きく息を吐いた。
ガタガタ震える俺の方を見るとコートを投げた。
「行きますよ」
「えっ、あの…どこへ…」
「施設を見たいのでしょ。見せてあげますよ。その代りそれがすんだらオレの言うことに従ってもらいます」
足早に部屋を出て車に乗り込んだ。
言うことに従ってもらうって。
そんなの当たり前じゃないか。
******
施設のすぐ近くで車をとめた。どうやらこれ以上は近づけないらしい。車の中から懐かしい施設を見る。
園庭では子どもたちが遊んでいた。今の時期冬休みに入り外のはたくさんの子どもがいた。
いつもの風景だった。
懐かしくて涙がでそうだ。
良かった。
施設はちゃんとある。
なくなるわけない。
俺が守ったのだから。
ここは変わらずずっと存在する。いつでも俺を迎えてくれる。一人にはしない。
ほっと息を吐き、現実を見る。
「…すみませんでした」
頭を下げた。
もう少しで取り返しのつかないところだった。疑心暗鬼になり、恩人であるカカシさんを疑ってしまった。
「いいですよ。元々キナ臭い話を聞いていましたからね。アンタに接触した男は前から別の組に出入りしていて、気になってマークしていたんですよ。まさかここが目的とは思いませんでしたが」
そう言われてミズキを思う。
同じ孤児であの施設で共に過ごした。俺と同じくらいあの施設が大好きで高校を卒業すると職員になった。
どうしてこんなことしたのだろう。なにが目的だったのだろう。
「ここにいない男のことなど、考えるのは止しなさい。貴方には関係のないことだ」
ピシャリと冷たく言われ、返す言葉もなかった。
現実に今、目の前で普段の施設の生活が行われている。ならばカカシさんが正しいのだろう。俺にできることはない。
「満足しましたか」
「…はい。すみませんでした」
「そうですか。ではオレの言うことを聞いてもらいます。―――ズボンを脱ぎなさい」
思わぬ言葉に彼を見つめる。
こんな真昼間で人が近くにいないがいつ目の前を人が通ってもおかしくないこの状況で?
しかも目の前には施設がある。
「聞こえませんでしたか?早くしなさい」
冷たい目に彼の怒りを感じる。
そうか、彼は怒っているんだ。当然だろう。5億の負債を俺のために肩代わりしてくれたのに、その俺が裏切ったのだから。どうして信じなかったのだろう。彼がそんなことする人ではないと分かっていたのに。それともただ、彼の前から消えたかっただけだろうか。あの女性と寄り添う彼を見たくなくて、ミズキの誘惑に乗ってしまったのだろうか。
なんて身勝手で恩知らずなのだろう。
ぎゅっと唇をかみ、ズボンに手をかける。
彼がこんなことで気が済むのなら、俺はなんだってやる。
「下着も」
そう言われて下着に手をかける。素肌で触れるシートの感触に思わず顔を顰めた。
「これを」
手渡されたのは男の性器の形をしたオモチャだった。
思わず手を払いのけようとしたががっちりと握らされた。ぷにょぷにょとした触感が生々しく感じた。
「舐めて。後ろも自分で弄らないと入らないよ」
その言葉にドキッとする。
どう考えてもここで入れろと言われているのだろう。
こんな人目があるところで好きな人の前で尻に指を突っ込んでオモチャを入れて善がる姿を見せなければならない。
それが裏切り者への贖罪。
彼は本気で怒り、俺を侮辱したいとまで考えているのだ。
改めて自分の軽率な行動に悔やんだ。
どうしてもっとカカシさんを信じられなかったのだろう。
どうしてもっと冷静に判断できなかったのだろう。
そこまでして俺はこの人から逃げたかったのか?
彼女の隣にいる彼を見たくなかったからか。
ならばこの行為はひどくお似合いだ。
俺にできることは体だけだ。彼を慰めることしか役に立たない。無駄な動きをすればするほどカカシさんに迷惑をかける。
誓ったではないか。
施設を取り戻すために、彼に自身を捧げると。
必要なのは体だけだ。
俺の意思など初めから必要ない。
自分の指を咥える。
たっぷりと舐め、そろそろと蕾を弄る。
彼が教えられたとおりに。
一本入れて、あまりの狭さに思わず顔を顰める。
緊張している。当たり前だ、こんな人前なのだから。
それでも何度か動かしていると緩まってきた。
こんなに恥ずかしいのに。
ドクドクと心臓は高鳴り、身体は震えているのに。
あぁ、もう俺はこんなことですら感じる体なのだ。
感じやすい、淫乱な体。
「ふ…っ、ぅん…」
二本、三本と増やす。増やす度に動きやすくなり、ひどく感じ、ぐちゃぐちゃと卑猥な音が車内に響いた。
「上手…」
真っ赤な顔を彼の冷たい手が撫でた。
「ご褒美にこれはオレが舐めてあげる」
そう言ってあのオモチャを掴み、ねっとりと舐めた。
それはまるで、俺自身を舐めているかのような、光悦とした表情に、ぎゅっと自身が締まったのが分かった。
彼は舐めてくれる。ねっとりと全身を愛撫する。
ちゅぱっと音をたてて口から抜いたそれは、唾液でテラテラと光っていた。
あんなに嫌だったのに、なんだかそれが彼の体の一部のようで。
ほしくてほしくて、堪らなかった。
「カ、カカシ、さ…」
ぼぉっとなりながら、彼を見上げる。
「ほしい…」
入れやすいように開ける精一杯まで足を広げた。
「それ…ほしい…」
「イルカ…」
助手席に手を付き、顎をとられて噛みつくようにキスした。
舌を絡めあい、唾液を送りあう。
俺もそれにあわせるようにしていると、指を抜かれ、望んでいたオモチャを入れられた。
「―――――っ」
圧迫感に痛みを感じたのは一瞬だった。
次の瞬間、思っていた以上の快楽が全身を駆け巡り、息をするのも忘れて、ひたすらその快楽に感じた。
いい。
いい、いい。すごく、いい。
どうしてこれが、彼自身ではないのだろう。
「あぁあ、ああ、あー…っ」
激しく動く異物に合わせて声を上げる。
「イルカ……」
彼が俺の名前を呼びながら、激しく動かす。強烈な快楽に頭が真っ白になる。
自身がパンパンに膨れて、もう少しでイけそうというところで、ピタッと動きが止まった。
「ぇ…、や…っ」
「続きは帰ってからしましょう。それまでこれをつけて我慢、ね」
そう言ってとりだしたのは、ペニスリング。
「やだっ、や…っ」
暴れる俺を易々と掴み、リングをはめた。
涙があふれ、彼を見上げるが、彼は嬉しそうに俺を見下ろした。
「いやらしい顔」
くくっと笑いながら、俺の中に入っているオモチャに触れた。その瞬間グネグネと動き出す。
「―――――っ、ああぁ」
強い刺激に、鈍い痛み。
頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「シャツを押さえていないと見えますよ」
それだけ言うと車を発進させる。
慌ててシャツを掴み、振動に耐えた。
恥ずかしい、痛い、みっともない、はしたない。
様々な感情が浮かび上がる。
でも、いい。すごくいい。
頭が真っ白になって、それしか考えられない。
彼しか考えられない。
他の事なんてどうでもいい。
俺には彼だけだ。
心も体も、彼だけのモノだ。
あぁ、ずっと。
こうやってずっと彼だけを想っていたい。
他の余計なことなど考えられないようにして。
貴方の事だけを頭いっぱいにして。
そうすれば、俺はこんなに幸福だ。
玄関の扉を閉めると彼の体を掴み、キスする。
慌てる彼を気に留めず、何度も何度も。
「イルカ…」
熱に魘されているかのような声で俺の名前を呼ぶ。それがたまらず嬉しくて、口づけと共に彼の服を脱がす。
一瞬吃驚されたが、彼も同じように俺の服に手をかけた。
お互い性急で余裕など一切ない荒々しい動作だったが、それだけ彼が俺に夢中なようで嬉しかった。
靴もろくに脱いでいない。
シャツのボタンは弾け飛び、ズボンも下着も足に引っかかったまま。
お互いそんな恰好で、広い玄関の冷たい床の上で俺は彼に乗っかった。
ろくにほぐされていなくきつかったが、それでもよかった。
彼自身はいつものように固く脈打っていたし、それを体内に入れた瞬間、安堵とも快楽とも呼べる熱い吐息を吐いてくれた。
彼は間違いなく俺を欲している。
俺に対して欲情している。
「はぁ…っ、う、ぅんん……っ」
ゆっくりと腰を上下に動かす。
何度か繰り返しているうちにくちゃくちゃと濡れてきて動きやすくなる。
彼の冷たく長い指が、俺の腰に食い込む。
「丸見え」
クスッと笑われた。
「ろくに触っていないのに後ろは簡単に飲み込んじゃうし、前はカチカチだ。…っ、ああほら言われて喜んだ」
「い、言わないで…っ」
はっはっと浅く息を吐きながらとても嬉しそうな声が下から繰り返される。
初めての体位なのに、ひどく興奮していた。
「ほら、動いて」
ぺちぺちと尻を叩かれて思わずギュッと力が入った。
「っ、…尻叩かれて感じたの?」
「っちが」
パシッとさっきとは異なる痛みが走る。
「あぁぁ……っ」
痛いのにひどく感じるのはなぜだろう。
「へぇ、イルカはこんなのも感じるようになったんだ。ハジメテは触るだけであんなに震えていたのに」
クスクスと笑いながら尻を撫でる。冷たい言葉なのに声はどこまでも優しかった。
「でも痛いのは可哀相かな。あぁ赤くなってきちゃった」
痛い?と聞かれて首を横に振る。痛感などなかった。ただそこが熱くて堪らなかった。
「痛いのは止めようね。せっかくイルカから誘ってくれたんだから今日はひたすら気持ち良くしてあげる」
そう言いながらはだけた胸へ口づける。
見なくても分かるほど乳首は赤く熟れていた。それを愛おしそうに眺め、噛んだ。
「―――っあぁ」
強い刺激に思わず彼の背中に力を込めた。
瞬間、嫌な感触がした。
慌てて手を見ると爪先がうっすらと赤くなっている。
引っ掻いてしまった。
「ごめんなさっ」
「いいから」
慌てて放れようとすると抱きしめられ、思わず下半身に力が入った。
「そんなことどうでもいいから」
「でも」
跡が、残ってしまう。
こんな傷誰でも性交の跡だと分かってしまうのに。
あの、婚約者にも。
(ちがう)
わざとではない。本当に、無意識だった。
だが、今までだってこれ以上の行為を繰り返していたのに、一度も彼の体に跡など残したことはなかった。
(ちがう、ちがう)
彼女に分かってほしいのか。
彼が俺と抱き合っていることを。その証拠を見せつけて別れさせようとしたのか。無意識に。
さぁっと頭から血の気が下がる気がした。
なんて欲深い、浅ましく醜い行為だろう。
こんなことして彼を陥れてそれで満足なのか。
そうして彼女から奪って、俺が彼女以上に彼を幸せにできるのか。
美しくもない。同性だから結婚も子どもも望めない。あるのは借金だけ。同じ土俵に上がることすら儚い夢でしかない。
俺の浅はかな行動は彼を不幸にすることしか繋がらない。
(こんなはずじゃなかったのに)
ただ、施設を救いたかっただけだ。
そのために俺に道を作ってくれた彼のためにできることを誠心誠意尽くそうと思っただけだ。
それなのに優しい彼に絆され、浅はかな想いをよせるなんて彼にしてみればいい迷惑だ。
そんなこと、彼は望んでいない。
彼が望んでいることは、ただの性欲処理だ。
妊娠中で抱けない彼女の替わり。
少し抵抗のある性癖の捌け口。
そんなの十分すぎるぐらいわかっているはずなのに。
だから彼の望む通り抱かれようとしているのに。
無意識に、自分の跡を残した。
無意識なんて、酷い言い訳だ。
心の奥底に望んでいたからこそしてしまったに過ぎない。
「ごめんなさい…っ」
溢れでる涙を見られたくなくて俯く。こんなことしてしまえば興醒めだ。萎えるに決まっている。本末転倒だ、何やっているんだよ。
ひたすら頭の中で罵倒しても、涙は止まってくれなかった。
「イルカ」
両手で顔を包みこむ。あんなに冷たかった掌がじんわりと熱くて心地よかった。
「傷なんてどうでもいい。イルカがほしいなら指だって詰めてもいい。だから泣かないで」
優しく涙を拭う彼に縋りたくてたまらなくなる。
「あぁ可愛い。イルカ…」
うっとりと呟くと、手を腰に回す。
そのまま上下に揺らした。
「あっ、ああぁ…っ」
「ほら、しがみついてないと落ちちゃうよ」
そう言われて再び彼に抱きつく。
そして俺も腰を揺らした。
「そう、上手。もっと動いて。イルカの好きなトコいっぱいあてて」
「ぅ、ん…っ」
そこから一心不乱にただ腰だけを動かした。
彼のモノが熱く膨れてナカに注ぎ込まれるまで、何度も。
「カカシさん、カカシさ…っ」
「イルカ」
彼の名前を呼べば、大きく動けば、彼は何度も俺の名前を呼んでくれる。
彼が抱いているのは自分だと、そう教えてくれるように。
彼が快楽を感じるのも熱を感じられるのも、そんな幸せそうに愛おしそうに見つめられるのも、全部俺だと。
一瞬でいい、勘違いさせてくれる。
お互い吐き出すと、俺も彼もぎゅっと力を込めて抱きしめてくれる。
まるで世界にたった二人しかいないような、そんな力強い抱擁だ。
「イルカ」
満足そうに、だが目の先にはまだ欲情を残して。
汗でドロドロになった髪をかき分け、額にキスしてくれる。
抜かないまま抱き上げられて、ベッドに向かう。
覆いかぶさる彼の首に抱きついた。
俺にできることは彼の熱を吐き出させることだけだ。
「カカシさん…」
煽るように彼にキスをする。
それだけで穏やかな彼の目が、ギラギラと鋭い光を発する。
「可愛いよ、イルカ…」
ちゅっちゅと体中を愛撫してくれる。それに応えるように声を上げ、股を開く。
彼が望むのならどんなはしたない真似でもできた。
「イルカ」
彼が入れやすいように足を広げ見せつけるかのように腰を上げた。
彼は満足そうに眺め、舐め、突っ込む。
何度出しても熱を失わないソレをゆっくりと埋め込んでいく。
彼から吐息が漏れた。
イルカイルカと耳元で何度も呼ばれその度に俺も彼の名を呼んだ。
「イルカ、ずっと一緒だ」
熱に魘されたような甘い囁き。
うそつき。
うそつきうそつき。
アンタも俺を置いていくくせに。
俺を一人にするくせに。
.
**
卵を水の入った鍋に入れ、米のとぎ汁の入った鍋には大根を入れる。その二つに火を入れて、他の材料を切っていく。
新しく買った鍋にどんどん材料を入れていく。まだ新しい鍋はピカピカと光っている。
これを買いにいかなければ、俺はまだ優しい夢に浸って入れたのかな。
そんな無駄なことを思う。
あのとき知れなくてもいつか、そう遠くない未来にきっと知ったはずだ。むしろ早く知れて良かったではないか。俺のキモチワルイ感情を彼に押しつける前に。顔を赤らめて彼に自身の想いを吐露するのを想像して気持ち悪くて吐きそうになる。
周りから俺は鈍い鈍いと言われてきたが、それで本当によかった。もっと早く自分の気持ちに気付いていたら、そして何かのきっかけで彼に伝えていたら、取り返しのつかないことになるところだった。
だから良かった。ナイスタイミングだ。
沸騰してきた鍋の火を弱めて時間を計る。
よくよく考えたら彼は俺の初恋になるのだ。
今まで人と深く付き合うのを避けていたので、こんな状況になりどうしていいか分からない。相談できるほどの相手もいない。頼れる親もいない。
(俺には施設だけだったのに)
親がいたときの生活はぼんやりとしか思い出せない。
どこに住んでいたのかも何をしていたのかも。かろうじて遺品は残っていたが写真以外ほとんど親戚にとられてしまった。
俺の思い出は施設の生活しかなかった。
あそこはよかった。毎日忙しくて余計なことを考える暇などなかった。万年経営難なので職員も少なく年下の相手は専らイルカの仕事だった。また器用だったので料理や裁縫など自主的に行っていた。
何十人の料理は材料が少ないこともありいつも悩みの種だった。畑仕事も勤しんだ。
同じ境遇の子どもたちと身を寄せ合い常に誰かそばにいてくれた。寂しさなど感じなかった。
親を亡くした時、俺の心はぽっかりと空いてしまった。その隙間を埋めるのに特定の人間を入れるのは止めた。
大切な人ができてしまうと、その人をなくすともう自分は立ち直れないと分かっていた。
だから心のよりどころを施設にした。
ここならなくならない。
俺のもとから消えることなんてない。
施設さえあれば俺は一人ではない。
そう思っていたのに。
現実はあっさり俺から奪おうとした。守れたとは思うが見に行けないのは寂しい。
今どうなっているのだろう。
誰一人と欠けることなく生活できているのだろうか。
あれ以上貧困していないだろうか。
寒さに震えていないだろうか。
できることなら行ってやりたい。
そして俺のもとからなくならないのだと証明してほしい。
***
ガチャっと玄関が開く音がする。
まだお昼過ぎだ。こんなに早く帰ってくるのは久々だ。
「おかえりなさ……」
玄関に出迎えに行くと、予想しなかった人物が立っていた。
「あら?貴方…」
そこにはあの時の女性だった。
彼の、婚約者。
途端どす黒いモノが全身を駆け巡った。
なんでここにいるんだ。
ここは、仕事部屋だ。
ここは、彼と俺のーーーー。
「紹介されなかったけどカカシの部下の人なのね?」
そう言われて、声を上げなかったことを褒めてやりたい。
違う、俺はあの人と寝てるんだ。昨日だって、一昨日だって彼はここに来て俺の作った料理を食べて、俺を抱いてるんだ。あんたじゃない。彼の隣にいるのは俺なんだって。
でも言えない。
惨めになるだけだ。
言ったところで鼻で笑われる。
じゃあ子どもでも身籠ってみればと言われたら発狂しそうだ。
「えぇ、まぁ、はい…」
「彼に貸したものがあって取りに来たんだけど、どこかしら……」
そう言って部屋中を歩き回る。
俺は見ないように見ないように俯き、立ち尽くした。
早く出て行ってくれ。
俺の中のドロドロが出てくる前に。
ゴボッと音がして慌ててキッチンに行き、火を止める。
あぁこの状況はまるで俺のようだ。
いずれこうやって吹き零れてしまう前に、火を止めないと。
「あらいい匂い」
くんくんと鼻で嗅ぎながらキッチンにやってきた。
「わぁすごい。これ、貴方が作ったの?」
「…えぇ。たいしたことありませんが」
「そんなことないわ。すごーい」
裏表なく話す彼女は美しい外見に似合わず子どもっぽかった。可愛らしい笑顔にこのギャップがいいのだろうと思う。
「ねぇ、少しいただいてもいいかしら」
「勿論です。取りましょう」
「本当!じゃあ大根と卵とはんぺん。こんにゃくは二個ね!あと厚揚げと、わっ、ロールキャベツ!すごーい」
無邪気に褒められ、思わず嬉しくなる。
皿いっぱいに入れるとくすっと笑われた。
「普段はこんなに食べないのよ。今は二人分食べなきゃいけないから」
言い訳のように少し照れながら言う様子が可愛らしい。
外見はとても美しく冷たい印象だったのに中身はこんなに可愛らしい。そして俺みたいな人にも優しくしてくれる。
イイ人なのだろう。
彼が選ぶのだから、当然だ。
「体調は、大丈夫ですか?」
「えぇ。お腹がすくぐらいかしら。もう本当ずーっと空腹な気がするの」
そう言いながらお腹を撫でる。
そこには彼との新しい命がいる。
愛の結晶だ。
「ねぇ、このレシピ教えてくれる?」
「たいしたことはないですよ」
「いいの。あの人こういう味好きだから」
ふわっと彼を思って笑うその笑みはとても穏やかで美しかった。
あぁ、彼のことを本気で愛しているのだろうな。
なんの迷いもなく、誰からも反対されず幸せになるのだろうな。
ぎゅっと唇をかみしめる。
幸せな顔を見るのはとても好きなのに、俺はそれを壊したくて堪らなかった。
壊すのは、一言でいい。
一言俺との関係を匂わせれば賢そうな彼女の事だ、きっと理解する。
言ってしまえ。
壊してしまえばいい。
そうすれば、彼は俺のモノになる。
「あの…っ」
レシピを書いたメモを持ちながら彼女が見上げた。
「さ、最近カカシさん帰ってきてますか…?」
否定されるのを前提とした問いだった。
だって彼はここに毎日帰ってきている。あんたの所じゃない、俺のところに。
「いいえ」
案の定否定されて、心が晴れやかになる。
そらみろ。
どこに来ているか教えてあげようか。
彼は俺のところに来ているんだ。
俺を選んでくれているんだ。
そう言いたくて堪らなかった。実際口は笑みを浮かべていただろう。
だが彼女は少しも取り乱さず、さも当然のように髪をかき上げた。
「まっ、昼間来てくれているから別にいいんだけど」
見事なカウンターだった。
俺はその言葉に固まった。
べつに夜に会えなくても関係ない。
会えるのは何も夜だけじゃない。
妊婦なのだ、早く寝ないと体に悪いのだろう。だから夜は遠慮して昼に会っていた。
そう言えば彼はいつも帰りが遅い。
深夜に帰ってきて明け方には出ていく。
まるで抱きに来ているだけだ。
(俺、馬鹿だ…)
そんなことで優越感に浸っていたなんて。
本当、ただの馬鹿だ。
「紅さんっ!!」
玄関から叫び声がしたかと思うと彼の部下だと言っていた見たことのある男が勢いよく入ってきた。
「あら、ヤマト」
「紅さん、マズイですよ。ここには誰も立ち入らないようにってはたけさんが」
ぐいぐいとひっぱりながら紅と呼ばれた彼の婚約者を連れ出す。
「あら、でも彼が」
「彼がイルカさんですよ。いいから早く」
「そうなの?私フォローしたほうが」
「いいから。イルカさんすみません」
「あっ、ちょっと待ってください」
出ていこうする二人を呼び止め、タッパーにおでんをつめる。
「これ、よければ」
渡すと嬉しそうに受け取った。先ほどの失言を謝罪の替わりのつもりなので、それがなんだか罪悪感でいっぱいになる。
彼女にしてみればあんなもの失言だとは思ってもいないとしても。
「あの、ヤマトさんも…」
「えっ、僕もですかっ」
たいしたものではないのに、二人の喜びように面を食らう。よほど家庭料理に飢えているのだろうか。
二人を送り出し、玄関が閉まると、そのまましゃがみこんでしまった。
「……っ」
じわっと涙があふれる。
醜い醜いこの心は日増しにひどくなっていく。
彼女はあの傷を見ただろうか。
ボンヤリと思う。
あの傷を見て、彼はどんな言い訳をするのだろう。
深夜になり、彼が帰ってきた。
「おかえりなさい」
「…はい」
出迎えた俺をぎゅっと抱きしめる。彼の匂いに、少し冷たい体温に包まれて思わずうっとりとする。
がさっと音がして彼の腕をみるとビニール袋を持っていた。
「あの…」
「昼間、あいつらが来たでしょう」
そう言われてドキッとする。
何か悪いことを見つかったみたいに冷や汗をかいた。
もし。
もし、あの失言を彼に言われていたらーーー。
そう思うと頭が真っ白になる。
身の程知らずと罵られたらどうしよう。
暗に俺との関係をばらそうとしたと知られたら。
そしたら間違いなく切られるのは自分だ。
5億を払ってまで手に入れた俺でも、彼女と比べれば間違いなく俺は切り捨てられるのに。
あんなこと言うのではなかった。
言っても傷ついたのは俺だけだった。
彼と彼女の固い絆の前に俺はなすすべもないのに。
「うるさくして、すみません」
彼は険しい表情で言った。
「いえ…」
「ここには近づかないよう言っていたんですが」
はぁっとため息をつき、ぶら下げていたビニール袋を持ち上げた。
「こういうこと、しなくていいです」
見るとそこにはタッパーが二つ入っていた。
二人に渡した、おでんを入れたタッパーだ。
「あの、それは……」
昼時だったのでよければと思ってしたが、余計なお世話だったのかもしれない。
もしかして嬉しそうにしていたが、実は口に合わなかったのかも。
サーッと自分の軽率な行動に泣きたくなる。
どうして上手くいかないのだろう。
「もう二度としないでください。勿体ない」
そう言ってタッパーをごみ箱に捨てた。少しピリピリしている気がする。
怒らせたと思ったが、「勿体ない」とはどういう意味だろう。
もしかして、おでんを取られて怒っているのか…?
なんだか子どもっぽくて思わず小さく噴き出した。
「…なんですか?」
複雑そうな顔をしている彼が、なんだか子どもっぽくてーー大好きなお菓子を取られた子どもみたいで、笑うのを止められない。
「おでんならたくさん作りましたから」
笑いながら言うと、ムッと顔を顰めてガシガシと頭を掻いた。
「いえ、そうじゃなくて」
うーと唸る。
「貴方の料理を、オレ以外に食わせないでください」
え?と思っていると、抱きしめられキスされた。
少し赤い顔にそれはどういう意味か聞くのを躊躇った。
俺の勘違いでいい。
それは独占欲ならいいのに。
ちゅっと音を立てて離れると、まだ複雑そうな顔をしていた。
なにか嫌なことでもあったのかな。
弱く抱きしめ、背中を撫でる。
彼は小さく息を吐き、されるがまま俺に抱きついた。
「誰にでも、優しくしないで。イルカはオレだけのことを考えていればいいから」
それは俺に言うというより、願望のようだった。
返事の代わりに一度強く抱きしめる。
俺の頭の中は貴方だけですよ。
言えない言葉を何度も心の中で呟く。
俺は貴方のモノです。
抱きしめ、背中を撫で、時にはキスをし。
言えない言葉を何度も心の中で呟いた。
視界の端に、捨てられたタッパーを見る。
やっぱり。
やっぱり貴方は昼間に、彼女と会っているのですね。
****
「あっ、醤油がない」
火にかけていた鍋を一度切り、部屋中探すがやはりない。
買おう買おうと思ってつい忘れてしまった。
「うーん。ないとできない、よなぁ」
さすがに調味料は代替えできない。
仕方ないとエプロンを脱ぎ、財布を持つ。
一体どこ産のバカ高い醤油を買わされるのだろう。
すっかり行かなくなった近所の高級スーパーへ向かう。
相変わらず人は多い。
(こんなところで買うぐらいなら食べに行った方が安くないか…?いや、そりゃ作った方が健康的なのだろうが)
だからってピーマン一個に四百円はないだろう。
調味料エリアに行くとめあての醤油があった。ドキドキしながら値段を見るとそんなに高くない物があり、ほっとする。勿論高いものはどうどうと陳列されていたが。
会計を済まして店を出る。
「―――イルカ?」
不意に名前を呼ばれて振り返ると知り合いが立っていた。
「ミズキ?」
あの施設の職員で幼馴染のミズキだった。
「お前、元気だったか」
久々の再会に嬉しくて近づく。
「元気かって、お前何してたんだよ」
「何って」
「会社に行っても辞めたっていうし、アパートも引っ越し済みだったし」
「あ、それは…」
施設の借金を返すためだが、そんなこと正直に言えない。
ごもごもと口を動かすと焦れたようにミズキが腕をとった。
「お前、施設が大変なことになっているのに何やってるんだよ」
「……はぁ?」
思ってもみない言葉に一瞬頭が真っ白になる。
施設は俺が借金を肩代わりしたはずだ。
あれから一度も訪れていないが、確かにカカシさんが約束してくれた。
だから俺はここにいるはずだ。
「施設って、…借金なくなったんじゃねーのかよ」
「んなわけないだろう。ほら、前から来ていた業者があっただろう?あそこに売られたよ」
「―――まさか…」
まさか。まさかまさか。
そんなはずない。
だって約束してくれた。カカシさんが。
「そ、そんなはずないっ!俺がお願いして、カ、はたけさんがっ」
「はたけ…?」
「5億の負債だったんだろ?俺が肩代わりするって、はたけさんと約束して、だから施設は」
施設は取り壊しにならなかったはずだ。
だって、そう約束した。
約束したんだ。
「―――個人が5億なんて肩代わりできるはずないだろ」
ミズキの容赦ない言葉に愕然とする。
そうだ。そんな金額個人がどうにかできるはずない。
しかもその条件が俺の一生だ。体中の臓器売ったって1億にもならない価値の俺だ。
それが、高々彼に抱かれるだけで返済できるって?
そんな上手い話、あるわけないじゃないか。
熱にうなされて盲目になっていた自分が、ようやく現実に直視した気分だ。
そうだ。そんな上手い話ない。
文書を交わしたわけでもない。
全部全部口約束だ。
だから彼は優しかっただろう?
嫌がるから他の男に抱かせなかっただろう?
もう少し稼いでやろうと思っていたけど嫌がったから自分の性欲処理にしたんだろう?いや、もしかして自分が飽きたらほかの奴に回すのかもしれない。
だって、彼はそういう仕事なのだから。
俺にそんな価値などないのだから。
「ど、どうしよう、ミズキ」
「落ち着け。とりあえず、場所をかえよう」
彼に連れられてもガチガチと歯が鳴り震えが止まらなかった。
どうしよう。
どうしたらいいのだろう。
施設はどうなったのだろう。
子どもたちはどうなったのだろう。
バラバラに引き取られたのだろうか。
彼らの涙顔が浮かび、泣きたくなった。
なんで気がつかなかったのだろう。
何を舞い上がっていたのだろう。
分かっていたはずだ。
分かっていて、現実を直視したくなくて、彼がくれる甘い生活に目を瞑り、流されていただけではないか。
だから一度も施設の話をしなかったのでは
現実を突きつけられるのが怖くて、聞かないことにして、それで救った気分に浸っていただけではないのか。
平凡な俺に価値なんてない。
そんなこと、分かっていたはずなのに。
泣きたい。
騙された、馬鹿な自分を罵って、泣き叫びたい。
近くにとめているという彼の車に乗る。
「いいか。今からアイツのマンションに行って、あの土地の契約書を持ってくるんだ。契約書があれば何とでもできるからな」
「お、俺はたけさんのマンションなんて知らない」
「何言っているんだよ、さっきあのマンションから出てきただろう」
そう言われて、ようやく気がつく。
あそこはヤリ部屋だと思っていたが、それにしては綺麗で高級すぎる。それに彼の書斎まであった。そうかあそこは彼の部屋なのだとようやく気がついた。
「本当に契約書持ってきたら、大丈夫なのか?仕返しとか…」
「大丈夫だ。信用できる弁護士見つけてあの土地を奪い返してくれるって。あいつらも元々違法まがいののことをしてるんだ。何にもできやしねーよ」
真剣な表情にほっとする。よかった。何とかなりそうで本当良かった。
「じゃあ俺とってくる」
「もし私物があるなら持って来いよ。あんまり多いと大変だけど」
「え…?」
思っても見ない言葉に思わず聞き返した。
「えって…、お前そのままそこに住めるわけねーだろ。報復されるに決まってるじゃん。しばらく俺の家に来いよ。少しなら養ってやるからさ」
冗談っぽく言われても返事ができなかった。
あの部屋から出る。
そんなこと考えてもいなかった。
だがこのままあのこに居続けることなどできない。
俺は大事な契約書を盗むのだから。
彼とももう会えない。
もう彼の顔も見れない。暮らせない。話しかけることも抱き合うこともできない。
―――良かったではないか。
いつか近い未来捨てられるのだから。
彼はあの女性と結婚して子どもが生まれて三人で暮らすに決まってるのだから。
俺が入る隙間などない幸せな家庭を築くのだから。
それを間近で見なくてすむ。
(そっか…)
騙されたと恨むべきはずなのにまだ心が追い付いていない。それよりそんな幸せな家族を見なくて済むという安心感しかない。
これでよかったのだと自分に言い聞かせる。
俺にできることは、施設を守ることだけだから。
*****
書斎には掃除と、食材を注文するためにパソコンを借りるためにしか入ったことがなかった。彼もここで仕事をしていることはほとんどなく、書斎という名の物置だと言っていた。
改めてみるとたくさんの本やファイルが並べられている。
どこを探していいか見当もつかないが、とりあえず机の上を漁る。業界用語が多く、どの書類を見ても何のものか見当もつかなかった。
ただ漠然とあの土地の名前を探す。
戻ったら何をしよう。
まずぼろアパートを探そう。できれば施設の近くがいい。帰り道でも見えるぐらい近場がいいな。
稼げる仕事ならなんでもしよう。
元々施設は経営難だったのだ。園長がいい人すぎて子どもをかたっぱしから引き受けていた。だがそのおかげで不自由なく生活できたのだから恨むつもりは毛頭ない。
お金なんてあればあるだけいいだろう。我武者羅に働いて働いて考える暇もなく働こう。
そう前と同じだ。
何も変わらない。
俺の相応しい世界に戻るだけだ。
「書類なら、一番上の引出しの中ですよ」
聞きなれた低く鋭い声が後ろから聞こえた。
まさか、こんな時間に帰ってくることなどなかったのに。
それよりもなぜ書類を探しているのを知っているのか。
嫌な汗が流れる。
「最もそんな書類だけで何かできるわけでもないですけどね」
クスクスと笑いながら近づいてくる。
「鬱陶しいハエが飛んでいるなぁとは思ったのですが、まさかアンタのところへ行くとは思いませんでした。頭のいいハエですよね?アンタからのお願いならオレは逆らえないから」
背後から抱きしめられ、俺の首元に顔を埋めた。
「それで?アンタはオレを捨てて、彼と愛の逃避行ですか」
ちゅっと強く吸われる。唇は冷たいのに、彼から与えられた刺激は熱かった。
ガチガチと歯が鳴った。
「し、施設が…っ」
「オレはきちんと買い戻しました。オレの言葉よりあいつの言葉を信じるの?」
そう言われて確かに彼の言葉ばかり鵜呑みにしていた。だがミズキが嘘をつく意味などあるのだろうか。
「施設に行かせてください。見るだけでいいんです」
「施設施設、アンタはそればっかりだな」
吐き捨てるように言うと彼が離れていった。寒さではない何かにぶるっと体を震わせる。
「施設を救えるならオレでなくてもいい。オレでなくても誰でも良かった。救ってくれるなら誰にでも抱かせた。オレが一番先に救ったからアンタはオレのそばにいてくれる、それだけだ」
独り言のようにブツブツと言う。
「オレは契約しなければアンタに触れられない、そばにいさせてもらえない。その権利を他の奴に渡したら、オレはアンタに見向きすらされなくなるんだな」
「カカシさん……」
彼の言葉は届かない。彼も俺に言っているのではなく自身に言い聞かせるように呟いた。
机の上にある書類を力任せにはらった。まるでぶつけようのない怒りを紛らわすかのように。それだけでは収まりきれず、手にあるものを投げ飛ばす。整理してあったものがぐしゃぐしゃになりながら宙を舞う。
初めて見る彼の荒々しい姿に俺はガタガタと震えることしかできなかった。
彼の怒りをかった、それだけは確かだった。
鋭い目で彼がこちらを睨んだ。
「誰が手放すか。施設がこっちにある限りアンタはオレのモノだ…っ」
手近にあった物を粗方放り投げるとふぅうっと大きく息を吐いた。
ガタガタ震える俺の方を見るとコートを投げた。
「行きますよ」
「えっ、あの…どこへ…」
「施設を見たいのでしょ。見せてあげますよ。その代りそれがすんだらオレの言うことに従ってもらいます」
足早に部屋を出て車に乗り込んだ。
言うことに従ってもらうって。
そんなの当たり前じゃないか。
******
施設のすぐ近くで車をとめた。どうやらこれ以上は近づけないらしい。車の中から懐かしい施設を見る。
園庭では子どもたちが遊んでいた。今の時期冬休みに入り外のはたくさんの子どもがいた。
いつもの風景だった。
懐かしくて涙がでそうだ。
良かった。
施設はちゃんとある。
なくなるわけない。
俺が守ったのだから。
ここは変わらずずっと存在する。いつでも俺を迎えてくれる。一人にはしない。
ほっと息を吐き、現実を見る。
「…すみませんでした」
頭を下げた。
もう少しで取り返しのつかないところだった。疑心暗鬼になり、恩人であるカカシさんを疑ってしまった。
「いいですよ。元々キナ臭い話を聞いていましたからね。アンタに接触した男は前から別の組に出入りしていて、気になってマークしていたんですよ。まさかここが目的とは思いませんでしたが」
そう言われてミズキを思う。
同じ孤児であの施設で共に過ごした。俺と同じくらいあの施設が大好きで高校を卒業すると職員になった。
どうしてこんなことしたのだろう。なにが目的だったのだろう。
「ここにいない男のことなど、考えるのは止しなさい。貴方には関係のないことだ」
ピシャリと冷たく言われ、返す言葉もなかった。
現実に今、目の前で普段の施設の生活が行われている。ならばカカシさんが正しいのだろう。俺にできることはない。
「満足しましたか」
「…はい。すみませんでした」
「そうですか。ではオレの言うことを聞いてもらいます。―――ズボンを脱ぎなさい」
思わぬ言葉に彼を見つめる。
こんな真昼間で人が近くにいないがいつ目の前を人が通ってもおかしくないこの状況で?
しかも目の前には施設がある。
「聞こえませんでしたか?早くしなさい」
冷たい目に彼の怒りを感じる。
そうか、彼は怒っているんだ。当然だろう。5億の負債を俺のために肩代わりしてくれたのに、その俺が裏切ったのだから。どうして信じなかったのだろう。彼がそんなことする人ではないと分かっていたのに。それともただ、彼の前から消えたかっただけだろうか。あの女性と寄り添う彼を見たくなくて、ミズキの誘惑に乗ってしまったのだろうか。
なんて身勝手で恩知らずなのだろう。
ぎゅっと唇をかみ、ズボンに手をかける。
彼がこんなことで気が済むのなら、俺はなんだってやる。
「下着も」
そう言われて下着に手をかける。素肌で触れるシートの感触に思わず顔を顰めた。
「これを」
手渡されたのは男の性器の形をしたオモチャだった。
思わず手を払いのけようとしたががっちりと握らされた。ぷにょぷにょとした触感が生々しく感じた。
「舐めて。後ろも自分で弄らないと入らないよ」
その言葉にドキッとする。
どう考えてもここで入れろと言われているのだろう。
こんな人目があるところで好きな人の前で尻に指を突っ込んでオモチャを入れて善がる姿を見せなければならない。
それが裏切り者への贖罪。
彼は本気で怒り、俺を侮辱したいとまで考えているのだ。
改めて自分の軽率な行動に悔やんだ。
どうしてもっとカカシさんを信じられなかったのだろう。
どうしてもっと冷静に判断できなかったのだろう。
そこまでして俺はこの人から逃げたかったのか?
彼女の隣にいる彼を見たくなかったからか。
ならばこの行為はひどくお似合いだ。
俺にできることは体だけだ。彼を慰めることしか役に立たない。無駄な動きをすればするほどカカシさんに迷惑をかける。
誓ったではないか。
施設を取り戻すために、彼に自身を捧げると。
必要なのは体だけだ。
俺の意思など初めから必要ない。
自分の指を咥える。
たっぷりと舐め、そろそろと蕾を弄る。
彼が教えられたとおりに。
一本入れて、あまりの狭さに思わず顔を顰める。
緊張している。当たり前だ、こんな人前なのだから。
それでも何度か動かしていると緩まってきた。
こんなに恥ずかしいのに。
ドクドクと心臓は高鳴り、身体は震えているのに。
あぁ、もう俺はこんなことですら感じる体なのだ。
感じやすい、淫乱な体。
「ふ…っ、ぅん…」
二本、三本と増やす。増やす度に動きやすくなり、ひどく感じ、ぐちゃぐちゃと卑猥な音が車内に響いた。
「上手…」
真っ赤な顔を彼の冷たい手が撫でた。
「ご褒美にこれはオレが舐めてあげる」
そう言ってあのオモチャを掴み、ねっとりと舐めた。
それはまるで、俺自身を舐めているかのような、光悦とした表情に、ぎゅっと自身が締まったのが分かった。
彼は舐めてくれる。ねっとりと全身を愛撫する。
ちゅぱっと音をたてて口から抜いたそれは、唾液でテラテラと光っていた。
あんなに嫌だったのに、なんだかそれが彼の体の一部のようで。
ほしくてほしくて、堪らなかった。
「カ、カカシ、さ…」
ぼぉっとなりながら、彼を見上げる。
「ほしい…」
入れやすいように開ける精一杯まで足を広げた。
「それ…ほしい…」
「イルカ…」
助手席に手を付き、顎をとられて噛みつくようにキスした。
舌を絡めあい、唾液を送りあう。
俺もそれにあわせるようにしていると、指を抜かれ、望んでいたオモチャを入れられた。
「―――――っ」
圧迫感に痛みを感じたのは一瞬だった。
次の瞬間、思っていた以上の快楽が全身を駆け巡り、息をするのも忘れて、ひたすらその快楽に感じた。
いい。
いい、いい。すごく、いい。
どうしてこれが、彼自身ではないのだろう。
「あぁあ、ああ、あー…っ」
激しく動く異物に合わせて声を上げる。
「イルカ……」
彼が俺の名前を呼びながら、激しく動かす。強烈な快楽に頭が真っ白になる。
自身がパンパンに膨れて、もう少しでイけそうというところで、ピタッと動きが止まった。
「ぇ…、や…っ」
「続きは帰ってからしましょう。それまでこれをつけて我慢、ね」
そう言ってとりだしたのは、ペニスリング。
「やだっ、や…っ」
暴れる俺を易々と掴み、リングをはめた。
涙があふれ、彼を見上げるが、彼は嬉しそうに俺を見下ろした。
「いやらしい顔」
くくっと笑いながら、俺の中に入っているオモチャに触れた。その瞬間グネグネと動き出す。
「―――――っ、ああぁ」
強い刺激に、鈍い痛み。
頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。
「シャツを押さえていないと見えますよ」
それだけ言うと車を発進させる。
慌ててシャツを掴み、振動に耐えた。
恥ずかしい、痛い、みっともない、はしたない。
様々な感情が浮かび上がる。
でも、いい。すごくいい。
頭が真っ白になって、それしか考えられない。
彼しか考えられない。
他の事なんてどうでもいい。
俺には彼だけだ。
心も体も、彼だけのモノだ。
あぁ、ずっと。
こうやってずっと彼だけを想っていたい。
他の余計なことなど考えられないようにして。
貴方の事だけを頭いっぱいにして。
そうすれば、俺はこんなに幸福だ。
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