俺はきっとカカシさんを理解できる日はこないだろう。
いつだってあの人は俺の考えないことを考えて、俺を振り回す。そして、いつの間にかここの奥底に入り込んで心をかき乱すのだ。誰にも触れられたくない奥底に。


「先生」
嬉しそうな顔をしながら、俺しかいない教室に入ってきた。
夕日がひろがり、彼の美しい銀髪が赤く染まっている。
「勝手に入らないでください」
思えば時々彼の視線をアカデミーで感じることはあったが、きちんと姿を現すのは初めてだ。
なんだか嫌な予感がして目が離せない。
「ごめんなさい、先生。今日いきなり休みになってすることがないから先生の顔が見たくて来ちゃいました」
謝っている割には嬉しそうに言う。
(することないのか、暇人め)
心の中で悪態をつきながら舌打ちする。
「何のようですか?来るなら部屋に来ればいいでしょ?俺まだ仕事がありますから」
ムッとして言うと、彼の眉がさがった。
「・・・・・・オレたまにここに来ていました。先生が教える姿見るの好きでした。優しい顔で笑いかける顔が好きでした。オレがいてもいなくても先生はかわりなく笑っているんですよね。オレ、先生が笑う顔大好きです」
今更、そんなことこんな場所で言ってどうする。
分かっているが、カカシさんの表情がいつもと違い、まるで追い詰められているようで、怖かった。
「先生が笑うと心が安らぎます。
先生が泣くと心が締め付けられます。
先生が怒るとひどくこわいです。
それでもその全部大好きです。先生大好きなんです」
「・・・・・・」
「でもオレが来てから笑わなくなりました。オレだけじゃなくて他の人へもどこか影があって、前のように明るい顔しなくなりましたよね。勿論オレのせいだって分かっています。オレが先生を無理矢理奪ったから。毎日毎日き、嫌いなオレに付き合ってくれるから。分かっていて手に入れたくせに、現実に先生の笑顔がなくなっていくのがこわくて・・・・・・っ。オレのせいだから、だから」
ポロポロと泣いているくせにそれを隠そうとも拭おうともせず、ただ立っているだけで。青く、ひたすら深い青い瞳でこちらを見ている。

「先生、お別れです」

その口で、俺の全てを縛ってきたその口で、そう言った。

「ずっと、ずっと分かっていました。こんなのダメだって。大好きな先生を汚すだけだって。大好きなのに不幸にするだけだって。先生の大切なモノ奪うことしかできないんだって、分かってました」
突っ立っていつものようにポロポロと泣く。
「でもこれ以上傍にいたら先生きっと壊れてしまうから。オレが壊してしまうから・・・っ、だから、お別れですっ」
わぁわぁ泣いて。
ぐちゃぐちゃの顔して、でも俺を見て、でも手は伸ばさずに。
それが今の俺と彼との距離のようで。
俺がずっと望んでいて、きっと一生言わないと思っていた言葉を易々と言った。
言いたいことは山のようにあるのに。
殴りつけて罵って二度と顔を見せるなと言ってやりたいのに。
俺は何もできずただ立っていた。
「先生、せんせ。あの女はダメです。先生を幸せにはしてくれません。だからもっといい人みつけてください。先生のこと大切にしてくれる優しい人、見つけてください。オレは二度と先生の前に現れませんから。絶対、絶対会いませんからぁ・・・っ」
子どもみたいに力一杯泣く。
「先生大好きでした。好きになってごめんなさい・・・っ」
そうやって俺の前から、彼の足で消えていった。


静まりかえった教室にただ立ち尽くす。
良かったではないか。
自分の力では決して抗えなかった相手が自ら消えてくれた。
あんなに望んでいた自由を簡単に手に入れられた。
(あの人は、本当に分からない人だ・・・)
俺は喜ぶことも、怒ることも、・・・・・・泣くこともできず、ただ出て行ったドアを見つめていた。



ひどく勝手な人だと思っていた。
俺の婚約者を奪っておきながら恐怖で縛りつけて俺の体を好き勝手にして
―――それが愛だと泣く人だった。
好きだと、大好きだと、愛していると何度言われただろう。
だがその声は自己主張だけで決して何をしてほしいと求めたりはしない。
こんなこと一人で考えて、フッと苦笑する。
そんな相手に、ようやく解放されて喜べないなんて。
(カカシさん)
自分の感情を押し込める術を知らず、泣く彼を思い出す。
こんな関係を誰よりも、俺よりも苦しんでいた人。
(俺、一度も貴方のこと嫌いだなんて、言っていませんよ)
貴方はいつだって一方的で俺の方を見てはくれなかった。


カカシさんは宣言通り、俺の前に現れなくなった。
俺の部屋にあったわずかな私物もなくなった。
まるで最初からいなかったように、なくなっていく。
「せんせ」
彼の先生になったことはないのに、ナルトたちの影響なのかずっとそう呼ぶ。
俺を愛するために縛り、愛する故に離れた彼を、その全てを愛だというのなら。
俺のこのどうしようもなく持て余すこの感情を、何と呼べば良い?


「先生」
あれは何度目だろう。いつもの居酒屋で、カカシさんは酷く緊張しながら俺の名を呼んだ。
「先生、付き合っている人、いるんですか?」
男の彼が何を思っていったのか。
その目は、緊張しながらも強く燃えるような光を放ち、俺をじっと見つめていた。
「あっ、えっと・・・」
俺は彼から逃げるように目を伏せた。
聞きたくなかった言葉だ。
これに答えたらきっと。
きっと。
彼との関係が崩れてしまう。
きっと今まで通りなんていかない。
「こ、婚約者が、いるんです・・・」
あぁ、分かっている。
躊躇った時点で俺は自分の気持ちに気づいてしまった。
貴方に惹かれている。
こんなにも、こんなにも。
だが、気づきたくない。気づいてしまえば変わってしまう。
俺の積み上げたモノ、全てが。
「・・・・・・そうですか」
ひどく落ち着いた声で、呟いた。
何てことないように。
何てことないように。
ただ恐ろしくて、彼が今どんな表情でいるのか怖くて俺はじっと濡れたグラスをじっと見ていた。

「別れましょう」
婚約者がそう言ったとき、俺はひどく慌てた。
やめろ、俺を見捨てないでくれ。
「他に好きな人ができたの」
それは、ずっと。

ずっと俺が彼女に言いたかった言葉だった。

お前はなんでそう簡単に言えるのだ。
俺はこんなに怖いのに。
いとも簡単に言ってのける彼女に憤りを感じながらも、どこかで憧れた。
俺も、そう言えたら彼は狂わなかったのかな。
だが、彼女は知らない。彼の狂気を。
きっとお前の心も、俺の心も、彼の心もぐちゃぐちゃになってまき散らして、誰も幸せになんかならない。
――――それが怖くて逃げたのに。
「さよなら」
その言葉になすすべなく立ち尽くす。
もう笑って良いのか、怒って良いのか、泣いて良いのか分からなかった。
きっと彼はくるだろう。
とびきりの笑顔で愛を歌うだろう。
そして無言で俺の言葉を奪う。
まるで人形を愛するかのように、俺の気持ちなど気にしなく、ただ自分の思いをぶつけるだけだ。
そんなの幸せなんかじゃない。
愛ではない。
好きだとは言わせない。



珍しくナルトがアカデミーを訪ねてきた。
「久しぶりだなぁ」
卒業生がアカデミーに来ることは良くあった。
任務でぐちゃぐちゃになった心を正すように、過去の思い出に浸る。
だがナルトは違っていた。
「イルカせんせい・・・」
疲れ切ったような表情で名を呼んだ。
「どうした?」
「本当は、・・・・・・本当はサスケからもサクラちゃんからも止められているってばよ。でも、オレ、どうしたらいいのか分かんなくて」
「?」
「カカシ先生が」
彼の名前を聞いてたじろぐ。
もう、関係のない人だと思っていたのに。
俺の体は浅ましくも熱を帯びた。
「カカシさんが、どうかしたのか?」
「カカシ先生このごろおかしくて。自暴自棄って言うか、ヤケになっているって言うか」
「・・・・・・」
それは、予想していなかったと言えば、嘘になる。
あんなに、あんなに狂っていた人が元に戻るなんて、ありえない。
だが、教え子が心配するほど酷いとは。俺あんなに狂っているときですら、真面目に教えていた彼からはとても想像できない。
「イルカ先生がカカシ先生と仲が良いって聞いて、だから先生なら何とかしてくれるんじゃないかって思って」
ぎゅっと腕を握られた。
カカシさんはこんなに弱々しくない。強く振りほどけないように握りながらも、表情はいつもいつ外されないか泣きそうなほど弱々しかった。
(お前は優しいなぁ、ナルト)
ぐしゃっといつものように頭を撫でてやる。
不安そうに見上げながらも、どこか期待している目だった。
(俺が助けられるか分からないけど)
そんな存在でも、関係でもない。そんなに強くない。
分かっている。
ただひたむきに彼を心配するナルトのようにはなれないが。
「――任せとけ」
部下をこんな風に心配させて、大人として叱ってやろう。
そして言えなかった、彼が聞こうとしなかった言葉を伝えてみよう。

今日の任務は終わったと聞き、とりあえず待合室に行ってみるが彼の姿はなかった。
「カカシかー?」
大きな声でアスマさんが叫んだ。
「猿飛上忍」
「あー、そんなに堅苦しく呼ぶんじゃねーよ」
めんどくせぇとたばこを吹かした。
弟のように可愛がってくれた彼は、人目が多いときは決して言わないが、二人きりだと親しげに話してくれる。
「なんかやっかいな奴に好かれちまったなぁ」
その言葉に苦笑する。
カカシさんからも何度か名前があがるぐらい、数少ない友人なのだろう。
「ご存じなんですね」
「本人から頼まれたからな」
苦虫を潰したように顔を顰める。
「頼まれた・・・?」
「殺してほしいだとよ」
さぁーっと血が下がっていくのを感じた。
勝手な人だと思っていたが、こんなに馬鹿だとは思わなかった。
「一昨日だ、クイナ持ってイっちまってる目でこれで刺して欲しいとあいつの喉に手を持っていかれたよ。ぶん殴ってやったがな」
ははっと小さく笑い、ふぅーっと息を吐いた。
「ありゃ、近いうち死ぬな」
それは死刑宣告のようだった。
ずっしりと重く心にのしかかる。
「だが、お前には関係ねーよ。お前は被害者だ、イルカ」
「・・・・・・」
それは気休めではなく本心なのだろう。
「あいつがどうしようもないクズで最低の人間だと思っている。だがな、一個だけ胸くそ悪い話を聞いてしまったんだがな」
「えっ・・・」
「あいつが狂った理由だよ」
どくんと心臓が跳ねた。
俺が婚約者がいることを知らせたのはかなり前だ。
それがいきなり最近になってそれを理由に狂ったとは思えなかった。彼はあの時ひどく納得していた。
「あいつはお前を手に入れることを諦めていた。遠くから見ているだけで良いと気色悪ぃこと言ってたんだけどな。ただな、ある日お前の婚約者から聞いたんだよ。本音を」
あぁ、心臓が痛い。
ドクドクと全身の血がそこに集まり、まるで警告のように体中にその鼓動を知らせる。
「お前の婚約者は、お前が利用できるから結婚するんだとよ。俺も前から気に入らなかったんだ。婚約しているのにもかかわらずちゃらちゃらして。お前のこと自分の心を殺してでも好いているのに、それを独り占めしている奴がそんな態度で、あいつは発狂したんだよ」
『愛してないならちょうだい。オレが愛して愛して愛して愛して誰よりも愛すからちょうだいよ』
彼の狂ったような叫び声が聞こえてきそうだった。
彼は何を見て、何を聞いたのだろう。
薄々と感じていたのにもかかわらず、何もせずただ流されていた俺とは違い、繊細で優しい彼は耐えられなかったのだろうか。
優しい、優しいひとだから。
(分かっているよ)
優しくて、誰も傷つかないように。傷つくのを一人で背負おうとする優しい人。
彼は一度だって誰も責めなかった。
ただ自分が愛してしまったことだけを責めた。
俺の分まで泣いてくれた。
俺の分まで愛してくれた。
優しい、人なのだ。
「もし、お前がこのままあいつを見捨てても誰もお前を責めねぇよ。あいつがしたことも褒められたことじゃねーし。俺だったら放っておく。ただな」
ふぅーっとまた息を吐いた。
「もし、お前があいつを助けようとするなら、早いほうがいいぜ」
そう言って、紙切れを渡された。
ポンポンと頭を撫でられ、立ち去った。
きっと、探しに来てくれたのだろうな。
口調も態度もどうでも良いみたいな態度をとるが、彼なりの優しさがとても心強かった。
(二人とも俺のこと過信しすぎだろう)
あの人を助けられるかは分からない。
彼は一度もそれを望まなかったし、今まで俺がそばにいても満たされていったのは欲求だけで、一度も救われてなどいなかった。
躊躇ってはいるが、だが一瞬でも見捨てようとは思わない。
ドクドクと痛い鼓動は果たして警告か、それとも覚悟か。
もらった紙切れをみる。そこには地図が書いてあった。
ぐしゃっと紙を握りつぶし、走った。
息切れとともに高鳴る鼓動がどこか気持ちよかった。

「あれ、先生がいる?」
チャイムをならしてドアを開けて、彼の第一声は間の抜けた言葉だった。
「オレついにイカれちゃったかな?先生が会いに来るはずないのに。幻かな?」
あははーと嬉しそうに笑った。
「あがっていいですか?」
「うん。もちろん、先生なら何してもいいデスヨ」
少し頬がこけて。うっすらと目の下にはクマができていた。通された部屋は何もなく、小さなテーブルとベッドがただ広い部屋に置かれていた。
「先生、会いたかった。すっごくすっごく会いたかった。会いたくて会いたくてますます狂っちゃったよ」
ヘラヘラして。
そうやって笑っていれば誤魔化されると思うなよ。
「ねぇ、先生。オレを奴隷にして?オレ先生が言うこと何でも聞くから。もうセックスして欲しいなんて言わないから、先生の傍にいさせて?ねっ、ねっ、お願い。オレ先生に会えないと死んじゃうよ」
ヘラヘラ笑いながら深い色をした瞳からぽろっと涙が零れた。
「先生のために別れたのに、会えなくて本当に本当に辛かった。先生に会えないのがこんなに辛いとは思わなかった。でもまた会えば何をするかこわくて会えなくて、でも会いたくて。ほ、本当、死にた」
言葉を聞く前に、ありったけの力で殴った。
きれいに吹っ飛び、起き上がる前に上からのしかかり、首に手をかけた。
「――っ、先生、せんせっ。オレのこと殺してくれるの?嬉しい、嬉しいです、せんせ。オレずっと先生に殺してもらいたかった。ずっとずっと先生に殺してもらいたかった」
ムカつくので反対の頬も殴ってやる。
嬉しそうに頬をさすりながら「痛いです、せんせ」と呟く。
「ナルトとアスマさんから聞きました。あんた何してるんですか?それでも大人ですか!?部下に心配されて、恥をしりなさい」
「ご、ごめんなさい先生。そんなつもりなかったんです。ごめんなさい」
おろおろと俺の下で慌てる。
その姿がひどく懐かしい。
それはまるで子どものようで。愛に飢えた子どものようで。
ちゅっと口づけをする。
貴方を受け入れる、覚悟を。
ただ怖かったのだ。
貴方を受け入れる変化を。きっと俺は夢中になる。
夢中になって、手放せなくなる。きっと彼が離れたら俺の心が死んでしまう。
そんな激しい愛に向き合うのが怖かったのだ。
「愛してますよ、カカシさん」
貴方を。貴方だけを。
ずっと、ずっと。
出会ってから、ずっと。
「うそだよ、先生」
切なく瞳が揺れた。
「二人に何言われたの?先生人がいいから付け込まれた?それとも復讐?そう言ってオレを喜ばせて、嫌いっていうのかなぁ」
あははーと笑う。
「でも幸せ。すっごく幸せ」
うっとりと目を瞑った。まるで余韻に浸るように。
あぁ彼もきっと怖かったのだろう。
この激しい愛に。
だから目を瞑って、耳をふさいで、声だけ出していたのだ。
「いつまで目を背けているんですか、カカシさん」
俺がそんな脅しで、好きでもない奴に体を開いたのかと本気で思っているのか。
縋りついた手を払いのけなかったと思うのか。
「俺は覚悟しました。貴方と向き合って愛していこうと。貴方の言葉を素直に受け入れようと」
そして貴方とともに生きていこうと。


「ちゃんと俺を見ろ。
俺の話を聞け。
カカシさんの全てで俺を感じろ」


「先生......」
ゆっくりと目を開き、なわなわと口をゆらす。
「う、うそだよ。オレ先生にいっぱいひどいことしたのに。オレ先生をめちゃくちゃにしたのに。せ、先生どうしたの?壊れた?オレ壊しちゃったかな」
ひっひっと嗚咽を漏らす。
「先生、せんせぇ、好きでした。ずっとずっと好きでした。見ているだけで良かったんです。綺麗な先生が汚いオレと一緒になっていつかオレが汚してしまうのが恐かったです。婚約者がいるって聞いて良かったと思いました。オレを止めてくれる存在がいるって嬉しかった。なのにあの女、せ、先生のこと、好きじゃないって。オレはこんなに好きなのに、あの女、あの女」
それは初めて見せた怒りだった。
「きっと、このまま先生が結婚しても幸せになれないと思ったから。それならオレが手をのばしてもいいんじゃないかって思って。オレが代わりに愛すればいいんじゃないかって、先生のこと誰よりも愛してあるからぁ!!」
怒りながら手で顔をおおってわんわん泣いて。
彼は以前自分の心はないのではないかと恐れていたけど。
そんなことはない。
彼は優しい心を持つ弱い人間だ。
「愛してますよ、カカシさん」
もう一度伝える。
貴方が信じるなら、信じるまで。
貴方が不安なら、不安がなくなるまで。
何度だって繰り返し伝えるから。
「せんせ、せんせぇ」
「愛してます」
バッと体を起こして、逆に押し倒された。
ボロボロな顔が泣きながら近づいてくる。
(初めてキスしてくれたな......)
自然と口元が緩む。
ずっとずっと待ったいたのだ。
この口づけを。
この熱を。
この鼓動を。
「愛してます」
ぐずぐずに泣いて、力いっぱい俺を抱きしめた。


そうだよ、その強さが愛だ。



この胸に溢れる想いが幸せなのだ。



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