「壁ドンっていいよねぇ」
今時まだそんなことを言っている人がいるのかと思い、ふと足が止まった。
壁ドンとは、男性が女性を壁際に追い詰めて手を壁にドンと突く行為だ。
一時里でも流行ってあっちこっちドンドンしていたが、自分の力量を忘れていたのか壁が凹みまくって、大工が大儲けしたらしい。
俺としての感想は、男とは強引な方がモテるか、優しいだけじゃ駄目なんだなぁと世の中の複雑性に憂いだ。
まだあんなのに夢見ている人いたんだ、どんな乙女だよと見てみると身長がそろそろ俺に追い越しそうなワガママ王子こと、俺の恋人様だった。わぁお。
「確かに~」
「あの顔の距離感とか密着度がいいのよねぇ」
周りには何故かこないだとは違う美人で美乳のくノ一さんたちが取り囲んでいた。
羨ま、いや、いやいやいや。
一瞬でも胸元を凝視したら血の制裁があるだろう。主に尻の。
ここは通り過ぎた方がいいのだろうか。いやでも内容にはちょっと興味がある。
「先生に、した方がいい?それともされた方がいい?どっちがキュンとくるかなぁ」
そんなことを真剣そうに悩み、周りの美人たちも「ぁぁああーっ!!」と悩まし気な声を上げた。
「先生が嫉妬にかられて切羽詰った顔で、ドンッもいいけどねぇ」
「でもカカシが見下ろす感じでしたら、年下の可愛い男から脱却できるかも」
「あー!それいい!『これからはオレが先生守るから』とか迫って」
「きゃー!!」
皆でとても盛り上がっている。
どんなシチュエーションだよとは誰も突っ込まないところを見ると完全に妄想の世界に入ってるなぁ。
「でも、壁ドンより顎クイじゃない」
そう聞くと、カカシくんは得意げにフフンと笑った。
「オレ、先生にされたことあるよ」
きゃーっ!と大きな歓声が上がった。
慌てているのは俺ひとりのようだ。
誰だそれ。俺がそんなクサいことできるような人間ではないぞ。
「口開けて、チェックするからって。マジな顔して、先生男らしかった・・・」
カカシくんはうっとりとした表情で言った。
「何、嫉妬?!浮気チェック?!」
「先生、癒し系の顔して結構男らしいわね!」
「そのまま、流れ込んでエッチとか?きゃー!!」
盛り上がっているところ悪いが、それはただ、カカシくんの歯の調子が悪そうだったから虫歯がないか見てあげただけだから。
何かバカバカしくなってきた。まるで世界が違う。
このまま見つからないよう行こうかと思った瞬間。
「ねぇ、カカシ。先生とエッチはどうなの?」
うら若き女性が真っ昼間にまだ未成年に聞くべきではないセリフをさらっと言った。
周りも興味があるのか口々に聞いている。
(おいおいおい・・・っ!)
それは俺にとっては誰にも話して欲しくない内容であり、彼にとっては最も惚気たい内容だった。
案の定、カカシくんはヘラッと笑った。
「えー、そういうこと、こういうとこで聞く?一応オレ未成年なんだけどー」
「今更何言ってるの?昔なんて抱いた女の名前は覚えずにエッチの内容しか覚えなかったくせに」
「そーよ。それで街中とかで偶然会ったら名前思い出せないからってエッチの内容を名前代わりにしてベラベラ喋ってたくせに」
「私、それで本命の彼氏にドン引きされたのよ!このぐらいたいした事ないでしょ?」
彼の過去はあらかた把握し受け止めてきたが、たまにドン引きするぐらいことがひょっこり出てくる。
今のはかなり引いた。
そしておそらくこの取り囲まれている美人と(おそらくこないだの美人たちとも)関係があったのだろう。なのに俺とのことを自慢げに言うなんて。
(まだまだ、勉強させないといけないなぁ・・・)
彼はきっとどれとどれがいけないか、分かってはいないだろう。
案の定彼は、「そうだよねぇ。仕方ないかぁ」と嬉しそうだ。
笑顔はいいんだ。笑顔だけは。
「カカシくん」
言われては困るから、仕方なく呼ぶと嬉しそうにこちらに近づいた。
「せんせ、終わったの?帰ろ」
「まだ昼前だぞ。夕方まで仕事だよ。偶然通りかかったから呼んだだけだ」
そう言うとカカシくんは照れたようにはにかみながら顔を赤く染め、後ろからはきゃーきゃー聞こえた。
「カカシ、カカシ、壁ドン」
小声で言ってるつもりだろうが、興奮しているためかよく聞こえた。
カカシくんはハッとなり小さく美人たちに向かって頷いた。
え?何で?ここで?
慌てる俺を他所に真顔なカカシくんがジリジリと近づいてくる。真剣になりすぎて変なチャクラがダダ漏れだ。なぜかハァハァと息が荒く目がギラギラとしている。
恐い。
なんか本当に恐いんだけど。
導かれるように、追い詰められるように壁際まで追いやられ、背に壁が当たった。
「カ、カシくっ、ちょっとまっ」
「せんせ」
右手を勢いよく壁に突いた。
ドンッッ!!
その日、久々に大工は儲かった。
◆◆◆
夕食におでんをつつきながら、カカシくんは何とも複雑そうな顔をしていた。
待合室の壁を壊して三代目からみっちり怒られたらしい。それでも昔なら説教など聞き流していたのに、今回はキチンと謝れて成長したなぁと感心する。
「待合室の壁ってあんなに弱かったんだぁね。あんなのだとすぐ壊れるよ」
カッコ悪いと思っているのか言い訳っぽく呟いた。そんなフォローしかできない彼が愛おしい。
「そうだなぁ。でもカカシくんが壊せない壁なんかないよ」
そう言うと嬉しそうに顔を輝かせた。
「まぁね。本気を出したらあんな壁なんか木っ端微塵だね」
「そうだろうな。だから常に手加減しないと駄目だぞ」
「分かってるよ」
励ましつつ、注意すると素直に聞いてくれた。まぁ説教は山のようにされただろうからこの件についてはこれだけにしておこう。
カカシくん、と名前を呼んだ。
「人に夜の生活のことを喋ったらいけないよ」
そう言うと一瞬何を言われたのか理解出来ず目をぱちくりさせた。
「・・・・・・せんせ、聞いてたんだ」
えっち、と嬉しそうに笑った。
「聞こえてたんだよ。あんな誰でも通る場所なら当然だろ」
「んー、そーだねー」
「カカシくん、何度も話したけど、俺にも立場があるんだ。教員というのはね、私生活もきちんとしておかないと、生徒は勿論保護者も不信感を抱く。そうするとどんなに丁寧に教えてもついてきてくれないんだ。分かるよな」
「んー」
面白くなさそうに大根をつつく。
「俺はカカシくんとの付き合いを隠したいとか、恥ずかしいことだとは思ってないよ。付き合っていることは勿論喋ってもいい。だけど夜の生活は別だ。そういう話は聞くだけで不快になる人が多数で、俺の周りは特に多い」
「んー」
やはりどこか不服そうだ。
カカシくんは周りの人という意識はあまりない。加えて羞恥?ナニソレ美味しいの?感覚だからいまいち俺の言ってることにピンとこないみたいだ。
自慢したいから言う。
惚気たいから喋る。
世界の中心が自分で回っていると疑いもせず思っている人だからなぁ。
困ったと言葉を考える。
「・・・・・・夜の生活のことは、二人だけの秘密だろ」
そう言うと、目を光らせた。
「二人だけの、秘密・・・」
なんだか甘いセリフにうっとりと酔っている。わりと彼はロマンチストのところがあるからこういう言葉が大好きで助かった。
「愛し合ってるところなんて俺たちだけが分かっていればいいことだろ?他人に喋って、勘繰られたら嫌だろ」
「先生の、可愛いところを、誰が・・・」
途端、禍々しい殺気を放った。
「・・・・・・コロス」
「落ち着け落ち着け!」
何故仮説の段階でそんなに怒れるんだ。
最近短期任務しかないから、チャクラ有り余ってるんじゃないのか。
「仮の話だろ。でも、カカシくんが喋るとそういう事になるぞ」
強めにいうと恐い顔で頷いた。
これで良かったのかは甚だ疑問だが、これ以上やると別問題に発展しそうになるので止めておく。
それから、と続ける。
「今日周りにいた女性の名前を覚えているかい?」
するとすぐムッとした。
「何で」
「昔関係があったのだろう?」
そう言うと一瞬ぽかんとして、すぐに嬉しそうに笑った。
「ナニ、先生ヤキモチ?大丈夫だぁよ。今でも全然覚える気もないよ」
その表情に。
その言葉に。
「カカシくん」
彼の名前を静かに呼び、パチリと箸を置いた。
「俺がカカシくんと歩いていて、君の知らない人から突然『男に突っ込まれて空イキが大好き奴』って俺が呼ばれたら、どう思う?」
その言葉に、彼は表情を失い、光のない目でこちらを見た。
「そんなの、許さないよ」
「誰を?」
「誰って、ソイツ。オレの先生に巫山戯たこと吐かすソイツだよ!」
「でも事実だろ?」
「っ、でも!!」
「でも?」
「でもっ、だって・・・っ!」
言葉が出ないのか、でも、だってを繰り返す。それがもどかしいのか箸をドンドンと机を叩いた。
その様子をジッと見ながら、彼の名前を読んた。
「君はそんなことを彼女たちにしてきたんだよ」
そう言うと、彼は目を見開いた。
「彼女たちは、カカシくんがそういう人だって分かっていて、当時は怒ったけど今は受け入れてくれているのかもしれない。カカシくんがそんな人でもいいから関係を持ちたいと思ったのかもしれない。だけど、彼女たちを大切に思っている人たちはどうだろう。恋人でなくてもいい。身内とか友人とか。俺は、カカシくんが、俺の友人や教え子がそんな風に呼ばれたら、怒るよ。そんな巫山戯た奴、殴り飛ばすよ」
カカシくんは俯いた。俺は構わず続ける。
「過去のことは今更訂正できない。だけど今は変えられる。カカシくん、彼女たちにしてきたことを、彼女たちが受け入れてくれていたからといって、甘んじてはいけないよ。それはとっても悪いことだ。彼女たちにも失礼だし、彼女たちを大切に思っている人たちにも失礼だ。今でも笑いながら言っていいことじゃない」
カカシくんは俯いたまま動かなかった。
暫くして食べようと声をかけると、俯いたまま箸を動かした。その後も黙ったまま風呂に入り、セックスもせずに寝た。
彼が導き出す答えを楽しみにしながら、俺も彼の隣で静かに寝た。
◆◆◆
次の日、カカシくんは静かに起き、朝食を食べた。任務なので準備をすると無言で玄関に行った。
「カカシくん」
呼ぶとどこか不安そうに俺の方を見上げた。
「俺は君を嫌ったりしないよ。だから不安に思わないで。でもしっかり考えて」
それだけ言うと額にキスをした。子どもっぽいから止めてと言われたことがあるが、これが海野家に伝わる任務前の儀式だ。任務前には大好きな人から祝福のキスを送るのは習わしだった。
「いってらっしゃい。気をつけて」
「・・・・・・ウン」
数時間ぶりに聞いた声は短かったがそれでもしっかりとした声だった。大きくなった背中を眺めながら無事を願った。
受付に行き、こっそりとカカシくんの任務を見ると、三日間という短期の危険性の低い任務だった。
ホッと息を吐いた。
「昨日はまたイルカの彼氏やらかしたらしいな」
隣に座っている同僚が嬉しそうに報告してきた。
「あぁ。でもあんなに壊してもすぐに直せるところを見ると木の葉の里の大工は優秀だなぁ」
「壁ドンで腕を鍛えられたらしいぞ」
成程。久々の腕の見せどころにさぞかし張り切られただろう。
「それよりちゃんと名前で呼んでやれよ」
「こう呼ぶとはたけ上忍喜ぶから、みんな呼んでるぞ」
またそんか頭の悪そうなことをする。頭が痛くなり押さえると同僚が笑った。
「全く話題は尽きないし、大変だな」
「そうだな」
それに関しては全く同意だから頷く。
「皆さ、イルカに感謝してるぞ」
「・・・・・・」
どう答えていいのか分からず、曖昧に濁した。
そこは触れてほしくなかった。
誰にも。
同僚も分かっているのか、それでさぁと話題を変えた。
「三日後の新年会、魚勝に決まったぞ」
その言葉にハッとした。
すっかり忘れていた。
「しまった・・・」
「おい、まさか忘れてたのか」
「忘年会終わって油断してた。まだ正月気分だったけどもう一月も中旬なんだよな」
「欠席できねーぞ。アカデミー関係で他里のお偉いさんもくるんだから」
「しまった・・・」
あとで言おうあとで言おうと思っていたらすっかり忘れていた。
カカシくんは俺の飲み会を嫌う。まるで親の敵のように憎んでいると言っても過言ではない。
誰とどこに何の為に行くのか明確に事前申告し、制限時間と酒の量を決められ、暫くはベッドの上では絶対服従を誓わされて、ようやく、渋々、どうにか行けるのだが、少しでも手順を間違えれば、恐ろしい体裁が待っている。
それでも大人には付き合いや仕事があるのだから行かなければならない。
特にこの新年会は他里との交流があるから外せないのに、彼が機嫌がいい日に言おうと思っていたらすっかり忘れていた。
しかも彼が任務から帰ってくる予定の日だ。
頭を抱え込んだ俺に同僚が同情して背をなでてくれた。
「ま、俺には何にもしてやれないけど頑張れ」
「はぁぁああぁ~」
頭を抱えてあれこれ考えたところで策など生まれず、三日後帰ってきたカカシくんに直接言うと、恐ろしい顔をした。
「・・・・・・先生、怒ってるわけ?アテツケ?」
「そうじゃない。本当に忘れていたんだ」
「ふぅん」
とても威圧的な目で蔑むように見下ろすように頷いた。その顔は昔の彼の顔でとても嫌いだった。
「カカシく」
言い終わる前にドンッと思いっきり机を殴った。
こないだとは比べものにならないほど受付の机は見事に粉々になった。
「先生なんか勝手にすればいい」
それだけ言うと、姿を消した。
◆◆◆
「それで、お前追いかけなくても良かったのかよ」
「こういう時は一度頭を冷やす時間が必要なんだよ。追いかけても、多分見つからん」
「さいで」
同僚がグイッと酒を飲んだ。
あれから、静まり返った受付で頭を下げ、普段通りに業務を遂行し、今は飲み会に来ている。他里の人とも一通り交流し、あとは解散になるまで食べていた。
「あれじゃね。はたけ上忍のマニュアル本でも作って発行したら?」
「ベストセラー作家になりそうで恐いよ」
「俺は是非買うね。ハハハッ」
ん、と徳利を差し出されたが、断った。
「今酒止めてるんだ」
「はぁ!?あの大酒飲みのイルカが!?」
「大酒飲みって失礼な。ザルなだけだよ」
「自慢かよ!っていうか何でだよ?遂に体壊したのか?」
「いや。ちょっと願掛け、じゃないけど」
思い出して小さく笑う。
「カカシくんが九月で二十歳になるんだ。去年から一緒に止めて、二十歳の誕生日に解禁するつもり。久々の酒って美味いだろ。まぁ今までもカカシくん結構飲んでたけど、折角だしさ」
もうすぐ彼は二十歳になるのだ。
なにか節目のようなことをしてやりたいと思っていた。
俺は二十歳から酒を覚えた。両親が厳しくて、決まりはキチンと守らされ、そこから外れると何だか落ち着かなかった。
周りは飲んでいても、俺はひたすら我慢し、二十歳で飲んだ時、この世のものとは思えなかった。そして、見事にハマった。
その感動を、少し彼にも味わって欲しかった。
そう提案したとき、「それって何の意味があるの?」と文句を言っていたが未だに律儀に守っているところが可愛いと思う。
「なんつーかさぁ」
同僚は笑いながら、旨そうに酒を飲んだ。その姿に正直生唾を飲んだ。
理由を聞いたのだから少しは遠慮して欲しい。
「お前って、本当にはたけ上忍のこと好きなんだよな」
「今更なんだよ」
真顔で言われて少し照れくさい。
チラッと見ると同僚はどこか同情した顔で
「いや、だって、アレだろ?」
ふぅーと息を吐いた。
「イルカがはたけ上忍と付き合ってるのって、里中の人から頭下げられたからだろ?」
「ナニソレ」
低い、低い声が響いた。
あんなに騒がしかった周りは、静寂が耳に痛い。
俺の真横には、カカシくんが当然のように立っていた。
「カカシくん、来てたのか」
「来るよ!先生がこそこそ酒飲むなんて疚しいことがあるからだろ。そんな巫山戯たことをする前に止めてやろうと思ってずっといたよ。当たり前だろっ!」
当たり前なのだろうか。
カカシくんに睨まれている同僚は気絶寸前だった。
「それよりも、さっきの話ナニ?どういうこと?」
「あれは」
「イルカは黙ってろっ!!」
普段は呼ばない名前を叫ばれ、凄い気迫に思わず体が震えた。
その様子をフンと鼻で笑い、同僚に向き合った。
「どういうこと?分かるように話せ」
「いや、あの・・・」
口篭る同僚にギロッと睨む。
これは久々にヤバイと思い、口を開こうとした瞬間。
「よさんか、カカシ」
三代目が呆れた顔をしながら近づいた。
そのまま問答無用で引きずり出し、別室に通された。俺もそれについて行った。
「おぬし、今日は他里の者が来ているのを知っておるだろうに」
「どうでもいい。こそこそ行く先生が悪い」
「そんな子どもじゃと、イルカに嫌われるぞ」
そう言うとギロッと三代目相手に睨んだ。
「カカシくん、失礼だぞ」
「先生はどっちの味方なの!?」
キィーとなったカカシくんをよいよいと三代目は頬らかに笑った。業務をブチ壊しかけたのに、三代目は優しいなぁ。
「そんなことより、さっきの話!どういうこと!?」
このまま誤魔化してしまおうと思ってたのに、やっぱり駄目か。
「あれは・・・」
「あれはのぅ、カカシ。わしがイルカに頼んだのじゃ。おぬしのそばにいてやってほしいと」
「・・・・・・はぁ?」
眉にシワをよせたカカシくんはとても嫌な笑い方をした。
その顔は侮蔑と猜疑心にまみれていた。
「つまりナニ?先生がオレと付き合ってくれてるのはアンタが指示したってこと?」
「わしだけではない。里中じゃ」
「はぁ?」
「わしが言ったあと、里中の者がイルカに直談判したり署名活動したんじゃ。おぬしと付き合ってやってほしいとのぉ」
その言葉に。
カカシくんの表情は消えた。
目の光は失われ、まるで人形のように、ただそこに立っていた。
「ふぅん。そぅ」
カカシくんはそう言うとふらっと俺の方へ来た。
「つまり先生は皆に頭下げられて、仕方なく、オレと付き合ってくれたんだ。確かに先生と付き合っていると大人しいもんね、オレ」
そういうことデショ?と問われて俺は動かなかった。ただジッと彼を見つめていた。
「アンタは里のために、オレへの生贄になったんだ」
俺は答えなかった。
微動だにしない俺を一瞥すると、俺の横をゆっくりと通り過ぎた。
「カカ」
ドーンッと大きな音がして、大きな壁に穴を開けていた。彼は止まらず、その場にあるものを破壊していく。
「カカシくん!?」
大きな音は店中を駆け巡り、外へと移った。
はぁぁと頭を抱えると、三代目が笑った。
「おぬしも大変じゃのぅ」
「お手数をおかけしてすみません」
ほっほっほと嬉しそうに笑った。とても嬉しそうだった。
「おぬしには、苦労をかける」
そこには少しも同情の顔はなかった。ただ、まるで嫁に出した娘を見つめるように慈愛に満ちていた。
だから俺はそれに答えるように頷いた。
「俺は、まだまだですけどね」
その答えに、三代目は満足そうに頷いた。
そう遠くないところで、皿が割る音や小さな悲鳴、そして壁を殴る音がした。
本格的にヤバくなってきたと顔をしかめながら歩き出した。
「わしはのぉ、イルカ」
彼が去った後をぼんやりと見つめながら三代目は呟いた。
懐かしむように。
慈しむように。
「あんなヤツじゃが、カカシが愛おしくて堪らんのじゃ」
その顔は、大好きな里の長の顔だった。
◆◆◆
カカシくんを見つけた時には、三軒の店を半壊していた。
腕を掴むと、ギロッと中々の気迫で睨まれた。
「止めに来たんだ。そうだよね、それが先生の役目だから。そうやって皆から頼まれてやってるんだよね」
「カカシくん」
「アンタは頼まれたら、男と付き合えるんだ。セックスだってできるんだ。見上げた忠誠心だね?自己犠牲愛?それとも男好き?」
カカシくんは心を削りながら叫んでいる。心はボロボロで、叫べば叫ぶほど血が流れるのに、止めることができない。
そうやって自分に言い聞かせて、傷ついて、俺から喋らさないで、これ以上傷つかないように予防線を張ることしか、自分を守る術を知らないのだ。
「別に?オレはどっちでもいいよ。むしろ良かったよ。そうやって里に縛られてたらアンタはオレから離れていかないんだから。そうだよ、そうだ。これからは気に入らないことがあったら暴れてやる。そうやって脅せば、里は、アンタは、言うこと聞いてくれるんデショ?」
「カカシくん」
ぎゅぅぅと腕をつかまれた。
「何が立派な大人になれだ。アンタの言う大人はこんなぐだらないヤツらしかいないじゃないか。オレは、アンタが褒めてくれるから、アンタの理想の恋人になる為だけに、アンタの言葉を信用してきたのに・・・っ」
傷ついた心を見せつけるかのような叫び。
その言葉に、無意識にポロりと涙が流れた。
ポロポロと止まることなく、流れ落ちる。
「・・・・・・何で泣くの?恐い?オレのこと恐い?」
「ち、がぅ・・・」
違う。
違う違う違う違う。
何度も何度もそう言いながら頭を横に振った。
悲しくなんてない。
彼がこんなにも。
こんなにも素直な気持ちをさらけ出してくれるようになったのだ。
自分の気持ちすら分からず、泣けなかったあの子どもがだ。
「カカシくん」
呼ぶとビクッとし、後ずさった。
今取り逃がしたら、きっと彼はもう二度と心を開いてはくれまい。失敗は許されない。
一歩近づくと、一歩下がる。
ゆっくりと、ゆっくりとタイミングを図る。
二人で睨み合いながら、ゆっくりと移動する。
とん、と彼の背が壁に当たった瞬間。
両手で挟み込むように、壁に手をついた。
力をセーブしたつもりが、力んでいたのか少しだけ壁が凹んだ。
「三代目から、里中から頭を下げられたのは、本当だ」
そう言った瞬間、目を見開き、綺麗な色をしていた瞳は絶望に塗りつぶされた。
だけど、と言葉を紡ぐ。
「それだけじゃない。その代わり俺からも契約を結んだんだ。その願いを叶えるから俺の願いも叶えろって」
カカシくんの唇が僅かに動いた。
ナニ?と聞いたかったが、恐くて声が出なかったのだろう。
どうして。
どうしてそんなにも恐れているのだろうか。
「俺の願いはね、カカシくん、君だよ」
ずっと。
ずっと傍にいたのに。
俺が好きでもない奴と付き合えるような器用な奴だと本気で思ったのだろうか。
好きでもない一回りも年下で同性に毎晩泣かされ、世界を変えられても受け入れられると本気で思ったのだろうか。
あんなに愛し合っていたのに、あの愛を疑うのか。
俺の本気をまだ舐めているのか。
「俺が一生カカシくんの面倒を見るから、カカシくんの一切の権限を俺にくれって。誰も二人の間に入ることを禁じ、もし、誰かが俺かカカシくんに手を出したら」
あの時、そう誓ったあの時と同じように。
高らかに声を張り上げる。
「俺は、カカシくんに里を滅ぼすように願うって」
だから誰も嫉妬しない。好意を引こうとしない。俺も彼が誰といても安心していられる。
カカシくんがその気になれば里を潰せると知っているから。
俺が何かあったら、そう願うだけで里なんて簡単に潰れてしまうから。
何よりも、里が二人でいることを望んだのだ。
「だから俺はカカシくんが女の人といてもヤキモチ妬かないし、将来子どもを作れって言われることもない。安心してカカシくんだけを真っ直ぐ向き合えるんだ」
カカシくんは俯き言葉を発しなかった。
そうすると冷静になってきて、何だか恥ずかしい格好してるなぁとゆっくり壁から手を離した途端。
カカシくんが俺に抱きついた。
「ナニソレ」
怒ったような口調に、おや?と彼を見ると、ムッとしながらも、目は笑っていた。
「オレに頼りきって。本当先生はオレがいないとダメなんだから」
「そうだな、俺じゃ壁も碌に壊せないよ」
凹んだ壁をコンコンと叩いてみせる。
すりっとカカシくんが頬を寄せた。
そして目を合わせると悪戯っぽく笑った。
「先生はオレがいないと、ラーメンばっかり食べるし、冷蔵庫空っぽにするし、残業ばっかりするし、すぐ人に使われちゃうし」
「うーん」
「腹出して寝るし、枕は加齢臭するし、面倒だからって髪は自分で切ってボサボサだし、服はダサいし、こないだ靴下穴あいてたよ」
「うーん」
「皆に好かれてて、みんなに笑顔ふりまいて、オレのこと全然構ってくれなくて、ーーー飲み会のこと黙ってて、薄情なせんせ」
結局、そこが言いたいのか。
ぷっくりと膨らませた頬を撫でながらごめんなと謝る。
「しょーがないから、オレが一生面倒みてあげるよ」
結婚適齢期の恋人持つってそーゆーことデショ?何故か得意げに言われて、何だか可笑しくて可笑しくて堪らなかった。
「じゃあ老後はカカシくんにお世話になるか」
「しょうがないから介護してあげるよ。よぼよぼで起き上がれなくなっても、オレがパンツの世話までしてあげる。マグロになったってオレ頑張って腰ふるよ?」
「そこはいい、そこは」
すぐ下ネタに走るのはよくない。コラッと叱りながら体を離した。不服そうなカカシくんを見てフッと笑う。
(愛おしいなぁ)
三代目が言ってた言葉が頭をよぎる。最も愛おしいの種類は違うが。
手を握り、引き寄せた。
「帰ろう、カカシくん」
「ン」
ギュッと一度だけ強く握り返して、ゆったりと隣を歩き出した。
夜風が火照った体には心地いい。
冬の夜空は澄んだ空気の中で星がより一層綺麗に見える。
寒い冬だからこそ、こんなにも綺麗なのだ。
「カカシくん」
前を見ながら彼の名前を呼んだ。
「ナニ?」
彼も同じように前を見ている。視線は絡まないのに、何故かとても近く感じる。それだけで、じんわりと心が温かくなる気がした。
「皆が、何て俺に頭を下げたか、知ってるかい」
「何てって、・・・恐いからデショ?暴れるし、問題起こすし、身勝手で迷惑だったと思うよ。オレ、クズだったし」
「違うよ、違う」
やはり勘違いしていた。
そんなためなら、俺は引き受けたりしなかった。
そんな風にカカシくんを思う里なんか、クソくらえだ。
「皆嬉しそうに頭を下げたんだ。『彼がああなったのは皆の責任だ。だから彼が幸せになるのなら私たちは何でもする』って。里はね、カカシくん。君の父親のことを間違いだったと認めたんだ。あれは誤りだって、彼は悪くないって。だけど外交があるから今更訂正できないから、こんな事でしか謝罪は出来ない、て嬉しそうに泣いたんだ」
苦しそうな顔して頭を下げる三代目と、嬉しそうに泣く里の人たち。
どちらもカカシくんのこと考えていた。
ずっとずっと悔やんでいた。
はたけサクモを見殺しにしたのも。
カカシくんを放置していたことも。
そして、俺の行いは正しいと証明してくれたんだ。
「許さなくていいんだよ。里を無理に許そうとはしなくてもいい。だけどねカカシくん。カカシくんのこと、里中が考え続けていたんだ。あれからずっと。忘れてなんかない。罪に苛まれ、後悔し、贖罪のようにカカシくんのこと見守っていてくれた。とても弱くて愚かだけど。・・・だけど忘れるより余程いい」
ずっと考えて、ようやく近づいた俺に、ようやく見つけた正解に、皆が頼ってくれたのだ。
それが正解だと、里中が証明してくれた。
それを見た時、もう一度この里を愛そうと決めたのだ。
人は誰しも間違える。
その間違いが大きければ大きいほど、訂正には時間も労力もかかる。
時間も労力も、彼のためにその努力を惜しまなかった里が、とても愛おしい。
「・・・・・・別に里なんてどうでもいい」
カカシくんは前を向きながらきっぱりと言い切った。
「ミナト先生やオビトが、里を守って死んだから、生きてるオレがその意志を継いでいるだけ。里の人たちなんかいくら死んでもいいし、別に恨んでもない。勝手に生きてろって思う」
けど・・・、と。
珍しく言い淀んだ。
「その里の人たちが、先生を育てて、オレに出会わせてくれたのなら、嫌いじゃないよ」
冬の夜空が美しいのは、暗くなるのが早いからだ。
真夜中の空には太陽の光がほとんど当たらず、その結果星一つ一つがはっきり見えやすくなる。
冬の夜は寒くて暗くて心細い。
だけど、こんなにも美しい。
彼のようにキラキラと光を放つ星に照らされながら、歩く里は美しい。
「好きだよ」
溢れる気持ちが止まらない。
心の底から幸福感が溢れて、吐き出す息がキラキラと輝いているようだった。
「カカシくんも、里も、大好きだ」
「はぁ?オレが一番でしょ?里なんかと一緒にしないでよ」
憎まれ口を叩きながら、だけど耳は真っ赤に染まっているカカシくんは最高に愛おしい。このまま力いっぱい抱きしめたい。思いの丈を力いっぱい彼の耳元で叫びたい。
まぁ、そんなことしたら一瞬でベッド行きになると思うのでしないけど。もう少しこの穏やかで愛おしい時間を大切にしておきたい。
大の大人か手を繋いで、人気のない道を歩いた。何だか照れくさくて、カカシくんの方を見てヘヘッと笑うと、ギュッと眉を顰められた。
「先生忘れてると思うけど、今夜は絶対服従だからね」
突然この幸せな空気をぶち壊す言葉が発せられた。
スッカリワスレテタ。
ヤバい。冷や汗が止まらない。
「カ、カカシくん?言っただろ、俺たちに介入してくる奴なんていないって」
「それとこれとは別。先生はオレと付き合ってるって自覚ないから忘れるんだよ」
「あるよ、自覚あるある!俺はカカシくんと向き合った日から一生面倒を見るって思ったんだから」
「だったら」
ムゥっと唇を尖らせ恨めしそうにこちらを見る。
「早くプロポーズしてよね!」
なるほど、最近そわそわしたり不機嫌になっているのはそのせいか。
いや、まずカカシくん未成年だし。
その前に同性同士は結婚できないし。
いや、その辺は三代目にお願いしたらなんとかなるかもしれないけど。
「そういうのはタイミングがあるんだよ」
「何言ってんの?先生もう三十代でしょ?早くしないとあっという間に初老だよ」
グサッと心に突き刺さった。
くそっ。年だけは一生埋まらない差だ。俺はこの先ずっとそのことを言われ続けるのだろう。一回り年上だからなぁ。
「白無垢ってキレイなうちに着ておきたいってものでしょ?」
「誰が着るんだよ、誰が」
「子育ても体力勝負だから早めがいいって」
「誰が産むんだよ」
「お互い親族いないなら仲人引き受けるからキチンと結納しろって三代目が」
「三代目ぇぇ!!」
あのじじぃ!なに吹き込んでいるんだ。
「いつそんなこと言ってたんだ?」
「え?さっき。先生のこと見張ってたら三代目に呼ばれて、結婚式は格式ある式にしろって急かされてさー。オレはウエディングドレスでもいいと思うんだけど」
「三代目ぇぇー・・・」
飲み会の時、鋭い視線を感じないから来ていないのかと思っていたが、三代目のところにいたのか。
それにしても三代目。お忙しいのにフォローしてくださったのですね。だけどフォローするならもっとマシなことしてください。カカシくんはこの手の冗談は通じないのだから。
カカシくんを見ると爛々と目が光っている。嬉しそうなのだが怖い。
ここで下手なことは言えない。軽々しくOKすると明日にも結納させられそうだ。別にしたくない訳では無いが早すぎる。かといって上手く断らないと、即絶対服従コースだ。
酔った頭をフル回転させる。
「・・・結婚は勿論するよ。一緒に年をとって、隣同士の慰霊碑に埋めてもらうつもりだ」
「じゃあ」
「だけど、恋人同士の時間も楽しみたい。まだ付き合って二年だろ。結婚したら二度と恋人にはなれないんだからさ。俺はまだカカシくんのこと恋人って呼びたい」
そう言うと目を見開き、にこぉっと笑った。
文句ナシの彼好みの返答だったらしい。ホッと胸をなで下ろす。クサいセリフは苦手だがロマンチストな彼のツボにハマるのなら背に腹は変えられない。
「恋人・・・。そうだよね。恋人って響きもいいよね・・・」
「そうだろ。いずれ結婚するんだから、俺たちのペースでやっていこう」
「うん」
満足げに頷いてくれた。
これで少しは彼の束縛が緩まればいいのだが、まぁ変わらないだろうな。
変わらなくてもいい。
この幸せ以上など決してないだろう。
「カカシくん。好きだよ」
そういうと。
嬉しそうに、幸せそうに、まるで子どものように無邪気に笑った。
そして俺も同じように笑うのだ。
今時まだそんなことを言っている人がいるのかと思い、ふと足が止まった。
壁ドンとは、男性が女性を壁際に追い詰めて手を壁にドンと突く行為だ。
一時里でも流行ってあっちこっちドンドンしていたが、自分の力量を忘れていたのか壁が凹みまくって、大工が大儲けしたらしい。
俺としての感想は、男とは強引な方がモテるか、優しいだけじゃ駄目なんだなぁと世の中の複雑性に憂いだ。
まだあんなのに夢見ている人いたんだ、どんな乙女だよと見てみると身長がそろそろ俺に追い越しそうなワガママ王子こと、俺の恋人様だった。わぁお。
「確かに~」
「あの顔の距離感とか密着度がいいのよねぇ」
周りには何故かこないだとは違う美人で美乳のくノ一さんたちが取り囲んでいた。
羨ま、いや、いやいやいや。
一瞬でも胸元を凝視したら血の制裁があるだろう。主に尻の。
ここは通り過ぎた方がいいのだろうか。いやでも内容にはちょっと興味がある。
「先生に、した方がいい?それともされた方がいい?どっちがキュンとくるかなぁ」
そんなことを真剣そうに悩み、周りの美人たちも「ぁぁああーっ!!」と悩まし気な声を上げた。
「先生が嫉妬にかられて切羽詰った顔で、ドンッもいいけどねぇ」
「でもカカシが見下ろす感じでしたら、年下の可愛い男から脱却できるかも」
「あー!それいい!『これからはオレが先生守るから』とか迫って」
「きゃー!!」
皆でとても盛り上がっている。
どんなシチュエーションだよとは誰も突っ込まないところを見ると完全に妄想の世界に入ってるなぁ。
「でも、壁ドンより顎クイじゃない」
そう聞くと、カカシくんは得意げにフフンと笑った。
「オレ、先生にされたことあるよ」
きゃーっ!と大きな歓声が上がった。
慌てているのは俺ひとりのようだ。
誰だそれ。俺がそんなクサいことできるような人間ではないぞ。
「口開けて、チェックするからって。マジな顔して、先生男らしかった・・・」
カカシくんはうっとりとした表情で言った。
「何、嫉妬?!浮気チェック?!」
「先生、癒し系の顔して結構男らしいわね!」
「そのまま、流れ込んでエッチとか?きゃー!!」
盛り上がっているところ悪いが、それはただ、カカシくんの歯の調子が悪そうだったから虫歯がないか見てあげただけだから。
何かバカバカしくなってきた。まるで世界が違う。
このまま見つからないよう行こうかと思った瞬間。
「ねぇ、カカシ。先生とエッチはどうなの?」
うら若き女性が真っ昼間にまだ未成年に聞くべきではないセリフをさらっと言った。
周りも興味があるのか口々に聞いている。
(おいおいおい・・・っ!)
それは俺にとっては誰にも話して欲しくない内容であり、彼にとっては最も惚気たい内容だった。
案の定、カカシくんはヘラッと笑った。
「えー、そういうこと、こういうとこで聞く?一応オレ未成年なんだけどー」
「今更何言ってるの?昔なんて抱いた女の名前は覚えずにエッチの内容しか覚えなかったくせに」
「そーよ。それで街中とかで偶然会ったら名前思い出せないからってエッチの内容を名前代わりにしてベラベラ喋ってたくせに」
「私、それで本命の彼氏にドン引きされたのよ!このぐらいたいした事ないでしょ?」
彼の過去はあらかた把握し受け止めてきたが、たまにドン引きするぐらいことがひょっこり出てくる。
今のはかなり引いた。
そしておそらくこの取り囲まれている美人と(おそらくこないだの美人たちとも)関係があったのだろう。なのに俺とのことを自慢げに言うなんて。
(まだまだ、勉強させないといけないなぁ・・・)
彼はきっとどれとどれがいけないか、分かってはいないだろう。
案の定彼は、「そうだよねぇ。仕方ないかぁ」と嬉しそうだ。
笑顔はいいんだ。笑顔だけは。
「カカシくん」
言われては困るから、仕方なく呼ぶと嬉しそうにこちらに近づいた。
「せんせ、終わったの?帰ろ」
「まだ昼前だぞ。夕方まで仕事だよ。偶然通りかかったから呼んだだけだ」
そう言うとカカシくんは照れたようにはにかみながら顔を赤く染め、後ろからはきゃーきゃー聞こえた。
「カカシ、カカシ、壁ドン」
小声で言ってるつもりだろうが、興奮しているためかよく聞こえた。
カカシくんはハッとなり小さく美人たちに向かって頷いた。
え?何で?ここで?
慌てる俺を他所に真顔なカカシくんがジリジリと近づいてくる。真剣になりすぎて変なチャクラがダダ漏れだ。なぜかハァハァと息が荒く目がギラギラとしている。
恐い。
なんか本当に恐いんだけど。
導かれるように、追い詰められるように壁際まで追いやられ、背に壁が当たった。
「カ、カシくっ、ちょっとまっ」
「せんせ」
右手を勢いよく壁に突いた。
ドンッッ!!
その日、久々に大工は儲かった。
◆◆◆
夕食におでんをつつきながら、カカシくんは何とも複雑そうな顔をしていた。
待合室の壁を壊して三代目からみっちり怒られたらしい。それでも昔なら説教など聞き流していたのに、今回はキチンと謝れて成長したなぁと感心する。
「待合室の壁ってあんなに弱かったんだぁね。あんなのだとすぐ壊れるよ」
カッコ悪いと思っているのか言い訳っぽく呟いた。そんなフォローしかできない彼が愛おしい。
「そうだなぁ。でもカカシくんが壊せない壁なんかないよ」
そう言うと嬉しそうに顔を輝かせた。
「まぁね。本気を出したらあんな壁なんか木っ端微塵だね」
「そうだろうな。だから常に手加減しないと駄目だぞ」
「分かってるよ」
励ましつつ、注意すると素直に聞いてくれた。まぁ説教は山のようにされただろうからこの件についてはこれだけにしておこう。
カカシくん、と名前を呼んだ。
「人に夜の生活のことを喋ったらいけないよ」
そう言うと一瞬何を言われたのか理解出来ず目をぱちくりさせた。
「・・・・・・せんせ、聞いてたんだ」
えっち、と嬉しそうに笑った。
「聞こえてたんだよ。あんな誰でも通る場所なら当然だろ」
「んー、そーだねー」
「カカシくん、何度も話したけど、俺にも立場があるんだ。教員というのはね、私生活もきちんとしておかないと、生徒は勿論保護者も不信感を抱く。そうするとどんなに丁寧に教えてもついてきてくれないんだ。分かるよな」
「んー」
面白くなさそうに大根をつつく。
「俺はカカシくんとの付き合いを隠したいとか、恥ずかしいことだとは思ってないよ。付き合っていることは勿論喋ってもいい。だけど夜の生活は別だ。そういう話は聞くだけで不快になる人が多数で、俺の周りは特に多い」
「んー」
やはりどこか不服そうだ。
カカシくんは周りの人という意識はあまりない。加えて羞恥?ナニソレ美味しいの?感覚だからいまいち俺の言ってることにピンとこないみたいだ。
自慢したいから言う。
惚気たいから喋る。
世界の中心が自分で回っていると疑いもせず思っている人だからなぁ。
困ったと言葉を考える。
「・・・・・・夜の生活のことは、二人だけの秘密だろ」
そう言うと、目を光らせた。
「二人だけの、秘密・・・」
なんだか甘いセリフにうっとりと酔っている。わりと彼はロマンチストのところがあるからこういう言葉が大好きで助かった。
「愛し合ってるところなんて俺たちだけが分かっていればいいことだろ?他人に喋って、勘繰られたら嫌だろ」
「先生の、可愛いところを、誰が・・・」
途端、禍々しい殺気を放った。
「・・・・・・コロス」
「落ち着け落ち着け!」
何故仮説の段階でそんなに怒れるんだ。
最近短期任務しかないから、チャクラ有り余ってるんじゃないのか。
「仮の話だろ。でも、カカシくんが喋るとそういう事になるぞ」
強めにいうと恐い顔で頷いた。
これで良かったのかは甚だ疑問だが、これ以上やると別問題に発展しそうになるので止めておく。
それから、と続ける。
「今日周りにいた女性の名前を覚えているかい?」
するとすぐムッとした。
「何で」
「昔関係があったのだろう?」
そう言うと一瞬ぽかんとして、すぐに嬉しそうに笑った。
「ナニ、先生ヤキモチ?大丈夫だぁよ。今でも全然覚える気もないよ」
その表情に。
その言葉に。
「カカシくん」
彼の名前を静かに呼び、パチリと箸を置いた。
「俺がカカシくんと歩いていて、君の知らない人から突然『男に突っ込まれて空イキが大好き奴』って俺が呼ばれたら、どう思う?」
その言葉に、彼は表情を失い、光のない目でこちらを見た。
「そんなの、許さないよ」
「誰を?」
「誰って、ソイツ。オレの先生に巫山戯たこと吐かすソイツだよ!」
「でも事実だろ?」
「っ、でも!!」
「でも?」
「でもっ、だって・・・っ!」
言葉が出ないのか、でも、だってを繰り返す。それがもどかしいのか箸をドンドンと机を叩いた。
その様子をジッと見ながら、彼の名前を読んた。
「君はそんなことを彼女たちにしてきたんだよ」
そう言うと、彼は目を見開いた。
「彼女たちは、カカシくんがそういう人だって分かっていて、当時は怒ったけど今は受け入れてくれているのかもしれない。カカシくんがそんな人でもいいから関係を持ちたいと思ったのかもしれない。だけど、彼女たちを大切に思っている人たちはどうだろう。恋人でなくてもいい。身内とか友人とか。俺は、カカシくんが、俺の友人や教え子がそんな風に呼ばれたら、怒るよ。そんな巫山戯た奴、殴り飛ばすよ」
カカシくんは俯いた。俺は構わず続ける。
「過去のことは今更訂正できない。だけど今は変えられる。カカシくん、彼女たちにしてきたことを、彼女たちが受け入れてくれていたからといって、甘んじてはいけないよ。それはとっても悪いことだ。彼女たちにも失礼だし、彼女たちを大切に思っている人たちにも失礼だ。今でも笑いながら言っていいことじゃない」
カカシくんは俯いたまま動かなかった。
暫くして食べようと声をかけると、俯いたまま箸を動かした。その後も黙ったまま風呂に入り、セックスもせずに寝た。
彼が導き出す答えを楽しみにしながら、俺も彼の隣で静かに寝た。
◆◆◆
次の日、カカシくんは静かに起き、朝食を食べた。任務なので準備をすると無言で玄関に行った。
「カカシくん」
呼ぶとどこか不安そうに俺の方を見上げた。
「俺は君を嫌ったりしないよ。だから不安に思わないで。でもしっかり考えて」
それだけ言うと額にキスをした。子どもっぽいから止めてと言われたことがあるが、これが海野家に伝わる任務前の儀式だ。任務前には大好きな人から祝福のキスを送るのは習わしだった。
「いってらっしゃい。気をつけて」
「・・・・・・ウン」
数時間ぶりに聞いた声は短かったがそれでもしっかりとした声だった。大きくなった背中を眺めながら無事を願った。
受付に行き、こっそりとカカシくんの任務を見ると、三日間という短期の危険性の低い任務だった。
ホッと息を吐いた。
「昨日はまたイルカの彼氏やらかしたらしいな」
隣に座っている同僚が嬉しそうに報告してきた。
「あぁ。でもあんなに壊してもすぐに直せるところを見ると木の葉の里の大工は優秀だなぁ」
「壁ドンで腕を鍛えられたらしいぞ」
成程。久々の腕の見せどころにさぞかし張り切られただろう。
「それよりちゃんと名前で呼んでやれよ」
「こう呼ぶとはたけ上忍喜ぶから、みんな呼んでるぞ」
またそんか頭の悪そうなことをする。頭が痛くなり押さえると同僚が笑った。
「全く話題は尽きないし、大変だな」
「そうだな」
それに関しては全く同意だから頷く。
「皆さ、イルカに感謝してるぞ」
「・・・・・・」
どう答えていいのか分からず、曖昧に濁した。
そこは触れてほしくなかった。
誰にも。
同僚も分かっているのか、それでさぁと話題を変えた。
「三日後の新年会、魚勝に決まったぞ」
その言葉にハッとした。
すっかり忘れていた。
「しまった・・・」
「おい、まさか忘れてたのか」
「忘年会終わって油断してた。まだ正月気分だったけどもう一月も中旬なんだよな」
「欠席できねーぞ。アカデミー関係で他里のお偉いさんもくるんだから」
「しまった・・・」
あとで言おうあとで言おうと思っていたらすっかり忘れていた。
カカシくんは俺の飲み会を嫌う。まるで親の敵のように憎んでいると言っても過言ではない。
誰とどこに何の為に行くのか明確に事前申告し、制限時間と酒の量を決められ、暫くはベッドの上では絶対服従を誓わされて、ようやく、渋々、どうにか行けるのだが、少しでも手順を間違えれば、恐ろしい体裁が待っている。
それでも大人には付き合いや仕事があるのだから行かなければならない。
特にこの新年会は他里との交流があるから外せないのに、彼が機嫌がいい日に言おうと思っていたらすっかり忘れていた。
しかも彼が任務から帰ってくる予定の日だ。
頭を抱え込んだ俺に同僚が同情して背をなでてくれた。
「ま、俺には何にもしてやれないけど頑張れ」
「はぁぁああぁ~」
頭を抱えてあれこれ考えたところで策など生まれず、三日後帰ってきたカカシくんに直接言うと、恐ろしい顔をした。
「・・・・・・先生、怒ってるわけ?アテツケ?」
「そうじゃない。本当に忘れていたんだ」
「ふぅん」
とても威圧的な目で蔑むように見下ろすように頷いた。その顔は昔の彼の顔でとても嫌いだった。
「カカシく」
言い終わる前にドンッと思いっきり机を殴った。
こないだとは比べものにならないほど受付の机は見事に粉々になった。
「先生なんか勝手にすればいい」
それだけ言うと、姿を消した。
◆◆◆
「それで、お前追いかけなくても良かったのかよ」
「こういう時は一度頭を冷やす時間が必要なんだよ。追いかけても、多分見つからん」
「さいで」
同僚がグイッと酒を飲んだ。
あれから、静まり返った受付で頭を下げ、普段通りに業務を遂行し、今は飲み会に来ている。他里の人とも一通り交流し、あとは解散になるまで食べていた。
「あれじゃね。はたけ上忍のマニュアル本でも作って発行したら?」
「ベストセラー作家になりそうで恐いよ」
「俺は是非買うね。ハハハッ」
ん、と徳利を差し出されたが、断った。
「今酒止めてるんだ」
「はぁ!?あの大酒飲みのイルカが!?」
「大酒飲みって失礼な。ザルなだけだよ」
「自慢かよ!っていうか何でだよ?遂に体壊したのか?」
「いや。ちょっと願掛け、じゃないけど」
思い出して小さく笑う。
「カカシくんが九月で二十歳になるんだ。去年から一緒に止めて、二十歳の誕生日に解禁するつもり。久々の酒って美味いだろ。まぁ今までもカカシくん結構飲んでたけど、折角だしさ」
もうすぐ彼は二十歳になるのだ。
なにか節目のようなことをしてやりたいと思っていた。
俺は二十歳から酒を覚えた。両親が厳しくて、決まりはキチンと守らされ、そこから外れると何だか落ち着かなかった。
周りは飲んでいても、俺はひたすら我慢し、二十歳で飲んだ時、この世のものとは思えなかった。そして、見事にハマった。
その感動を、少し彼にも味わって欲しかった。
そう提案したとき、「それって何の意味があるの?」と文句を言っていたが未だに律儀に守っているところが可愛いと思う。
「なんつーかさぁ」
同僚は笑いながら、旨そうに酒を飲んだ。その姿に正直生唾を飲んだ。
理由を聞いたのだから少しは遠慮して欲しい。
「お前って、本当にはたけ上忍のこと好きなんだよな」
「今更なんだよ」
真顔で言われて少し照れくさい。
チラッと見ると同僚はどこか同情した顔で
「いや、だって、アレだろ?」
ふぅーと息を吐いた。
「イルカがはたけ上忍と付き合ってるのって、里中の人から頭下げられたからだろ?」
「ナニソレ」
低い、低い声が響いた。
あんなに騒がしかった周りは、静寂が耳に痛い。
俺の真横には、カカシくんが当然のように立っていた。
「カカシくん、来てたのか」
「来るよ!先生がこそこそ酒飲むなんて疚しいことがあるからだろ。そんな巫山戯たことをする前に止めてやろうと思ってずっといたよ。当たり前だろっ!」
当たり前なのだろうか。
カカシくんに睨まれている同僚は気絶寸前だった。
「それよりも、さっきの話ナニ?どういうこと?」
「あれは」
「イルカは黙ってろっ!!」
普段は呼ばない名前を叫ばれ、凄い気迫に思わず体が震えた。
その様子をフンと鼻で笑い、同僚に向き合った。
「どういうこと?分かるように話せ」
「いや、あの・・・」
口篭る同僚にギロッと睨む。
これは久々にヤバイと思い、口を開こうとした瞬間。
「よさんか、カカシ」
三代目が呆れた顔をしながら近づいた。
そのまま問答無用で引きずり出し、別室に通された。俺もそれについて行った。
「おぬし、今日は他里の者が来ているのを知っておるだろうに」
「どうでもいい。こそこそ行く先生が悪い」
「そんな子どもじゃと、イルカに嫌われるぞ」
そう言うとギロッと三代目相手に睨んだ。
「カカシくん、失礼だぞ」
「先生はどっちの味方なの!?」
キィーとなったカカシくんをよいよいと三代目は頬らかに笑った。業務をブチ壊しかけたのに、三代目は優しいなぁ。
「そんなことより、さっきの話!どういうこと!?」
このまま誤魔化してしまおうと思ってたのに、やっぱり駄目か。
「あれは・・・」
「あれはのぅ、カカシ。わしがイルカに頼んだのじゃ。おぬしのそばにいてやってほしいと」
「・・・・・・はぁ?」
眉にシワをよせたカカシくんはとても嫌な笑い方をした。
その顔は侮蔑と猜疑心にまみれていた。
「つまりナニ?先生がオレと付き合ってくれてるのはアンタが指示したってこと?」
「わしだけではない。里中じゃ」
「はぁ?」
「わしが言ったあと、里中の者がイルカに直談判したり署名活動したんじゃ。おぬしと付き合ってやってほしいとのぉ」
その言葉に。
カカシくんの表情は消えた。
目の光は失われ、まるで人形のように、ただそこに立っていた。
「ふぅん。そぅ」
カカシくんはそう言うとふらっと俺の方へ来た。
「つまり先生は皆に頭下げられて、仕方なく、オレと付き合ってくれたんだ。確かに先生と付き合っていると大人しいもんね、オレ」
そういうことデショ?と問われて俺は動かなかった。ただジッと彼を見つめていた。
「アンタは里のために、オレへの生贄になったんだ」
俺は答えなかった。
微動だにしない俺を一瞥すると、俺の横をゆっくりと通り過ぎた。
「カカ」
ドーンッと大きな音がして、大きな壁に穴を開けていた。彼は止まらず、その場にあるものを破壊していく。
「カカシくん!?」
大きな音は店中を駆け巡り、外へと移った。
はぁぁと頭を抱えると、三代目が笑った。
「おぬしも大変じゃのぅ」
「お手数をおかけしてすみません」
ほっほっほと嬉しそうに笑った。とても嬉しそうだった。
「おぬしには、苦労をかける」
そこには少しも同情の顔はなかった。ただ、まるで嫁に出した娘を見つめるように慈愛に満ちていた。
だから俺はそれに答えるように頷いた。
「俺は、まだまだですけどね」
その答えに、三代目は満足そうに頷いた。
そう遠くないところで、皿が割る音や小さな悲鳴、そして壁を殴る音がした。
本格的にヤバくなってきたと顔をしかめながら歩き出した。
「わしはのぉ、イルカ」
彼が去った後をぼんやりと見つめながら三代目は呟いた。
懐かしむように。
慈しむように。
「あんなヤツじゃが、カカシが愛おしくて堪らんのじゃ」
その顔は、大好きな里の長の顔だった。
◆◆◆
カカシくんを見つけた時には、三軒の店を半壊していた。
腕を掴むと、ギロッと中々の気迫で睨まれた。
「止めに来たんだ。そうだよね、それが先生の役目だから。そうやって皆から頼まれてやってるんだよね」
「カカシくん」
「アンタは頼まれたら、男と付き合えるんだ。セックスだってできるんだ。見上げた忠誠心だね?自己犠牲愛?それとも男好き?」
カカシくんは心を削りながら叫んでいる。心はボロボロで、叫べば叫ぶほど血が流れるのに、止めることができない。
そうやって自分に言い聞かせて、傷ついて、俺から喋らさないで、これ以上傷つかないように予防線を張ることしか、自分を守る術を知らないのだ。
「別に?オレはどっちでもいいよ。むしろ良かったよ。そうやって里に縛られてたらアンタはオレから離れていかないんだから。そうだよ、そうだ。これからは気に入らないことがあったら暴れてやる。そうやって脅せば、里は、アンタは、言うこと聞いてくれるんデショ?」
「カカシくん」
ぎゅぅぅと腕をつかまれた。
「何が立派な大人になれだ。アンタの言う大人はこんなぐだらないヤツらしかいないじゃないか。オレは、アンタが褒めてくれるから、アンタの理想の恋人になる為だけに、アンタの言葉を信用してきたのに・・・っ」
傷ついた心を見せつけるかのような叫び。
その言葉に、無意識にポロりと涙が流れた。
ポロポロと止まることなく、流れ落ちる。
「・・・・・・何で泣くの?恐い?オレのこと恐い?」
「ち、がぅ・・・」
違う。
違う違う違う違う。
何度も何度もそう言いながら頭を横に振った。
悲しくなんてない。
彼がこんなにも。
こんなにも素直な気持ちをさらけ出してくれるようになったのだ。
自分の気持ちすら分からず、泣けなかったあの子どもがだ。
「カカシくん」
呼ぶとビクッとし、後ずさった。
今取り逃がしたら、きっと彼はもう二度と心を開いてはくれまい。失敗は許されない。
一歩近づくと、一歩下がる。
ゆっくりと、ゆっくりとタイミングを図る。
二人で睨み合いながら、ゆっくりと移動する。
とん、と彼の背が壁に当たった瞬間。
両手で挟み込むように、壁に手をついた。
力をセーブしたつもりが、力んでいたのか少しだけ壁が凹んだ。
「三代目から、里中から頭を下げられたのは、本当だ」
そう言った瞬間、目を見開き、綺麗な色をしていた瞳は絶望に塗りつぶされた。
だけど、と言葉を紡ぐ。
「それだけじゃない。その代わり俺からも契約を結んだんだ。その願いを叶えるから俺の願いも叶えろって」
カカシくんの唇が僅かに動いた。
ナニ?と聞いたかったが、恐くて声が出なかったのだろう。
どうして。
どうしてそんなにも恐れているのだろうか。
「俺の願いはね、カカシくん、君だよ」
ずっと。
ずっと傍にいたのに。
俺が好きでもない奴と付き合えるような器用な奴だと本気で思ったのだろうか。
好きでもない一回りも年下で同性に毎晩泣かされ、世界を変えられても受け入れられると本気で思ったのだろうか。
あんなに愛し合っていたのに、あの愛を疑うのか。
俺の本気をまだ舐めているのか。
「俺が一生カカシくんの面倒を見るから、カカシくんの一切の権限を俺にくれって。誰も二人の間に入ることを禁じ、もし、誰かが俺かカカシくんに手を出したら」
あの時、そう誓ったあの時と同じように。
高らかに声を張り上げる。
「俺は、カカシくんに里を滅ぼすように願うって」
だから誰も嫉妬しない。好意を引こうとしない。俺も彼が誰といても安心していられる。
カカシくんがその気になれば里を潰せると知っているから。
俺が何かあったら、そう願うだけで里なんて簡単に潰れてしまうから。
何よりも、里が二人でいることを望んだのだ。
「だから俺はカカシくんが女の人といてもヤキモチ妬かないし、将来子どもを作れって言われることもない。安心してカカシくんだけを真っ直ぐ向き合えるんだ」
カカシくんは俯き言葉を発しなかった。
そうすると冷静になってきて、何だか恥ずかしい格好してるなぁとゆっくり壁から手を離した途端。
カカシくんが俺に抱きついた。
「ナニソレ」
怒ったような口調に、おや?と彼を見ると、ムッとしながらも、目は笑っていた。
「オレに頼りきって。本当先生はオレがいないとダメなんだから」
「そうだな、俺じゃ壁も碌に壊せないよ」
凹んだ壁をコンコンと叩いてみせる。
すりっとカカシくんが頬を寄せた。
そして目を合わせると悪戯っぽく笑った。
「先生はオレがいないと、ラーメンばっかり食べるし、冷蔵庫空っぽにするし、残業ばっかりするし、すぐ人に使われちゃうし」
「うーん」
「腹出して寝るし、枕は加齢臭するし、面倒だからって髪は自分で切ってボサボサだし、服はダサいし、こないだ靴下穴あいてたよ」
「うーん」
「皆に好かれてて、みんなに笑顔ふりまいて、オレのこと全然構ってくれなくて、ーーー飲み会のこと黙ってて、薄情なせんせ」
結局、そこが言いたいのか。
ぷっくりと膨らませた頬を撫でながらごめんなと謝る。
「しょーがないから、オレが一生面倒みてあげるよ」
結婚適齢期の恋人持つってそーゆーことデショ?何故か得意げに言われて、何だか可笑しくて可笑しくて堪らなかった。
「じゃあ老後はカカシくんにお世話になるか」
「しょうがないから介護してあげるよ。よぼよぼで起き上がれなくなっても、オレがパンツの世話までしてあげる。マグロになったってオレ頑張って腰ふるよ?」
「そこはいい、そこは」
すぐ下ネタに走るのはよくない。コラッと叱りながら体を離した。不服そうなカカシくんを見てフッと笑う。
(愛おしいなぁ)
三代目が言ってた言葉が頭をよぎる。最も愛おしいの種類は違うが。
手を握り、引き寄せた。
「帰ろう、カカシくん」
「ン」
ギュッと一度だけ強く握り返して、ゆったりと隣を歩き出した。
夜風が火照った体には心地いい。
冬の夜空は澄んだ空気の中で星がより一層綺麗に見える。
寒い冬だからこそ、こんなにも綺麗なのだ。
「カカシくん」
前を見ながら彼の名前を呼んだ。
「ナニ?」
彼も同じように前を見ている。視線は絡まないのに、何故かとても近く感じる。それだけで、じんわりと心が温かくなる気がした。
「皆が、何て俺に頭を下げたか、知ってるかい」
「何てって、・・・恐いからデショ?暴れるし、問題起こすし、身勝手で迷惑だったと思うよ。オレ、クズだったし」
「違うよ、違う」
やはり勘違いしていた。
そんなためなら、俺は引き受けたりしなかった。
そんな風にカカシくんを思う里なんか、クソくらえだ。
「皆嬉しそうに頭を下げたんだ。『彼がああなったのは皆の責任だ。だから彼が幸せになるのなら私たちは何でもする』って。里はね、カカシくん。君の父親のことを間違いだったと認めたんだ。あれは誤りだって、彼は悪くないって。だけど外交があるから今更訂正できないから、こんな事でしか謝罪は出来ない、て嬉しそうに泣いたんだ」
苦しそうな顔して頭を下げる三代目と、嬉しそうに泣く里の人たち。
どちらもカカシくんのこと考えていた。
ずっとずっと悔やんでいた。
はたけサクモを見殺しにしたのも。
カカシくんを放置していたことも。
そして、俺の行いは正しいと証明してくれたんだ。
「許さなくていいんだよ。里を無理に許そうとはしなくてもいい。だけどねカカシくん。カカシくんのこと、里中が考え続けていたんだ。あれからずっと。忘れてなんかない。罪に苛まれ、後悔し、贖罪のようにカカシくんのこと見守っていてくれた。とても弱くて愚かだけど。・・・だけど忘れるより余程いい」
ずっと考えて、ようやく近づいた俺に、ようやく見つけた正解に、皆が頼ってくれたのだ。
それが正解だと、里中が証明してくれた。
それを見た時、もう一度この里を愛そうと決めたのだ。
人は誰しも間違える。
その間違いが大きければ大きいほど、訂正には時間も労力もかかる。
時間も労力も、彼のためにその努力を惜しまなかった里が、とても愛おしい。
「・・・・・・別に里なんてどうでもいい」
カカシくんは前を向きながらきっぱりと言い切った。
「ミナト先生やオビトが、里を守って死んだから、生きてるオレがその意志を継いでいるだけ。里の人たちなんかいくら死んでもいいし、別に恨んでもない。勝手に生きてろって思う」
けど・・・、と。
珍しく言い淀んだ。
「その里の人たちが、先生を育てて、オレに出会わせてくれたのなら、嫌いじゃないよ」
冬の夜空が美しいのは、暗くなるのが早いからだ。
真夜中の空には太陽の光がほとんど当たらず、その結果星一つ一つがはっきり見えやすくなる。
冬の夜は寒くて暗くて心細い。
だけど、こんなにも美しい。
彼のようにキラキラと光を放つ星に照らされながら、歩く里は美しい。
「好きだよ」
溢れる気持ちが止まらない。
心の底から幸福感が溢れて、吐き出す息がキラキラと輝いているようだった。
「カカシくんも、里も、大好きだ」
「はぁ?オレが一番でしょ?里なんかと一緒にしないでよ」
憎まれ口を叩きながら、だけど耳は真っ赤に染まっているカカシくんは最高に愛おしい。このまま力いっぱい抱きしめたい。思いの丈を力いっぱい彼の耳元で叫びたい。
まぁ、そんなことしたら一瞬でベッド行きになると思うのでしないけど。もう少しこの穏やかで愛おしい時間を大切にしておきたい。
大の大人か手を繋いで、人気のない道を歩いた。何だか照れくさくて、カカシくんの方を見てヘヘッと笑うと、ギュッと眉を顰められた。
「先生忘れてると思うけど、今夜は絶対服従だからね」
突然この幸せな空気をぶち壊す言葉が発せられた。
スッカリワスレテタ。
ヤバい。冷や汗が止まらない。
「カ、カカシくん?言っただろ、俺たちに介入してくる奴なんていないって」
「それとこれとは別。先生はオレと付き合ってるって自覚ないから忘れるんだよ」
「あるよ、自覚あるある!俺はカカシくんと向き合った日から一生面倒を見るって思ったんだから」
「だったら」
ムゥっと唇を尖らせ恨めしそうにこちらを見る。
「早くプロポーズしてよね!」
なるほど、最近そわそわしたり不機嫌になっているのはそのせいか。
いや、まずカカシくん未成年だし。
その前に同性同士は結婚できないし。
いや、その辺は三代目にお願いしたらなんとかなるかもしれないけど。
「そういうのはタイミングがあるんだよ」
「何言ってんの?先生もう三十代でしょ?早くしないとあっという間に初老だよ」
グサッと心に突き刺さった。
くそっ。年だけは一生埋まらない差だ。俺はこの先ずっとそのことを言われ続けるのだろう。一回り年上だからなぁ。
「白無垢ってキレイなうちに着ておきたいってものでしょ?」
「誰が着るんだよ、誰が」
「子育ても体力勝負だから早めがいいって」
「誰が産むんだよ」
「お互い親族いないなら仲人引き受けるからキチンと結納しろって三代目が」
「三代目ぇぇ!!」
あのじじぃ!なに吹き込んでいるんだ。
「いつそんなこと言ってたんだ?」
「え?さっき。先生のこと見張ってたら三代目に呼ばれて、結婚式は格式ある式にしろって急かされてさー。オレはウエディングドレスでもいいと思うんだけど」
「三代目ぇぇー・・・」
飲み会の時、鋭い視線を感じないから来ていないのかと思っていたが、三代目のところにいたのか。
それにしても三代目。お忙しいのにフォローしてくださったのですね。だけどフォローするならもっとマシなことしてください。カカシくんはこの手の冗談は通じないのだから。
カカシくんを見ると爛々と目が光っている。嬉しそうなのだが怖い。
ここで下手なことは言えない。軽々しくOKすると明日にも結納させられそうだ。別にしたくない訳では無いが早すぎる。かといって上手く断らないと、即絶対服従コースだ。
酔った頭をフル回転させる。
「・・・結婚は勿論するよ。一緒に年をとって、隣同士の慰霊碑に埋めてもらうつもりだ」
「じゃあ」
「だけど、恋人同士の時間も楽しみたい。まだ付き合って二年だろ。結婚したら二度と恋人にはなれないんだからさ。俺はまだカカシくんのこと恋人って呼びたい」
そう言うと目を見開き、にこぉっと笑った。
文句ナシの彼好みの返答だったらしい。ホッと胸をなで下ろす。クサいセリフは苦手だがロマンチストな彼のツボにハマるのなら背に腹は変えられない。
「恋人・・・。そうだよね。恋人って響きもいいよね・・・」
「そうだろ。いずれ結婚するんだから、俺たちのペースでやっていこう」
「うん」
満足げに頷いてくれた。
これで少しは彼の束縛が緩まればいいのだが、まぁ変わらないだろうな。
変わらなくてもいい。
この幸せ以上など決してないだろう。
「カカシくん。好きだよ」
そういうと。
嬉しそうに、幸せそうに、まるで子どものように無邪気に笑った。
そして俺も同じように笑うのだ。
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