「イルカ、今日『わんにゃん動物園』やるって!」
新聞のテレビ欄を見せながら興奮気味の可愛らしい恋人を見る。
先日、様々な動物の生態を特集する『わんにゃん動物園』を何気なしに二人で見ると思った以上に可愛らしく、健気な動作に二人してハマり最近欠かさず見るようになった。
特にカカシさんは犬にハマったらしくいつか飼いたいとまで言っている。
「じゃあ今日は頑張って仕事終わらせましょうね」
「うんっ」
えへえへと笑いながら新聞を読んでいる。
経営者として情報を得るため朝新聞を読むのは欠かさないが、オフのときのカカシさんはよく脱線してやれ芸能人がどうしたとか宝くじがどうしたとか言ってくる。
その表情が無邪気な子どものようで、俺もついつい構ってしまう。そして遅刻ギリギリになるという悪循環だ。
彼に甘いのは、重々承知しており改善しようとするが中々上手くいかない。それもこれも彼が可愛らしすぎるからいけないのだ。
「ねぇーイルカー、今日のネクタイどっちがいいー?」
皿を洗い終わるとカカシさんがオレンジと緑のネクタイを見せた。
「んー、今日は重役の方と会食があるので緑がいいじゃないですか」
「ん、緑ねー」
きゅっと綺麗に結ぶ。
不器用な彼が上手くできる数少ない事柄だ。
「イルカもお揃いにしよーよ」
「えー、あったかなぁ」
男同士だとこういう貸し借りができて便利だ。
特にネクタイはサイズがないので彼と共有できる。同じ柄の色違いを見つけ首に巻いた。
「オレがしてあげる」
そう言って手早く結んでくれる。
綺麗な長い指が動く姿は優雅で美しくほぅと見とれてしまう。
あの指が、昨晩も俺の体を這い、翻弄していった。
そんなことをふと思い出してしまい、顔が赤くなってしまった。
朝っぱらから俺は何てことを・・・!
「イルカ?どうしたの?顔、赤いよ」
クスッと笑いながら頬をなでられた。
分かってるくせに。
コイツもしかしてわざとか・・・っ!
むぅっと膨れるとクスクス笑いながらごめーんねと謝られた。
「イルカって本当可愛い」
「可愛くなんかないです」
「可愛いよ。オレ、イルカ特集してたら録画してずっと見てるよ」
なんだか変態チックな言い回しだ。だが彼ならやりかねない気がする。
ぎゅっと彼が抱き着いた。
「今日は早く仕事終わらせて、お家でのんびりテレビ見ようね。それで、夜はワンコプレイしよ?」
「なっ!?」
先週ワンコ特集で二人して興奮してそのままベッドに向かった。あの時のプレイを思い出すと顔から火が出そうだ。
「ぜ、絶対しません!」
「えー何でー?イルカすっごく可愛かったのに」
「ダメです!」
「えー!あっ、じゃあオレがワンコになるよ。バター犬ね」
「もぅ!」
軽く叩くと痛いと笑いながら身をよじった。
そんなことをしているとあっという間に遅刻ギリギリの時刻になる。
「カカシさん!遅刻ですよ!」
「ちぇっ。はぁい」
ちゅっと素早く頬にキスすると二人分鞄を持って俺の腰に手を置いた。
スマートなエスコートに一人でドキドキしながら会社に向かった。
「海野くん、今日の予定分かってるね?」
「はい、社長は15時まで会食込みの会議となりますので、私はここで電話対応や庶務をしています」
「お昼もなにがあるか分からないからここで一人で昼食をとるように」
「はい」
連日言われていたスケジュールを確認する。
いつもどおり、社長がいない昼食のことは注意される。会議中に限って大事な電話がくることが多いためだ。俺が秘書になってからはそんなにないが、よくあることなので注意していないといけない、らしい。
最近電話対応が上手くなったねと社長から褒められたのだ。
ここで極めて、もっと社長に尽くしたい。
認められて、使える人だと思われたい。
いつものように軽くキスをし、社長はキリッとした顔で出ていった。
一人きりになった秘書室で溜まっていた領収書の整理をする。
体を動かす仕事も好きだが、こういうデスクワークも中々楽しい。小さいことだが社長に通じる仕事をして、彼の役に立っていると実感できる。
意気込んで仕事をしていると電話が鳴った。
「はい、秘書の海野です」
「イルカ!久しぶり、分かるかしら?」
「紅さん?」
紅とは俺の前に秘書をしていた先輩だ。入社当時から話題の人で、とても美人なのに仕事もできるというまさに高嶺の花だ。もっとも、俺が秘書になるのと入れ替わる形で営業部エースと結婚し寿退社した。当時は泣き崩れる男で社内は騒然としたらしい。
「お久しぶりです!どうされたんですか?」
引き継ぎのため数時間だが言葉を交わしたことがある。偉ぶることなくあっさりとした人柄で分かりやすく教えてくれ、俺の憧れの人だ。
「ちょっと近くに立ち寄ってね、久しぶりだし顔見せようかと思って。カカシいる?」
彼女は彼のことをカカシと呼ぶ。かなり前からの腐れ縁だと言うが、当初はモヤモヤとした。
彼女は美人で仕事もできる。性格もいい。
彼の隣にいても引け劣らず、公私共々いいパートナーとなるだろう。実際そういう噂は何度か聞いたことがある。
正直彼女が寿退社して一番喜んでいるのは俺だ。もし彼女と一緒に仕事をしていたら、彼女と比べられたら、俺は何一つとして勝てない。きっとカカシさんも俺のことを好きになることなどなかっただろう。
だからこそ一日でも早く彼女並の仕事をしたいと思っている。最も、未だ仕事ぶりは彼女の足元にも及ばないが。
「社長は只今会議中です」
「あら、そうなの。ねっ、そろそろ昼休みでしょ?出てこない?」
「えっ、と・・・」
是非行きたいが社長から大事な電話があると言われているため席を外せない。
「すみません。大事な電話があるので・・・」
「電話ぁ!?」
なぜか大声で叫ばれた。耳がキーンとなる。
「昼休みは休憩時間でしょ?きちんと休まなきゃダメよ」
「でも・・・」
「まぁいいわ。じゃあ私が弁当買って行くから」
あとでね、と電話が切れた。
突然の来客だったが、彼女に会えるのは嬉しい。
せっかくなので仕事について聞いてみようと思った。
久々に会った彼女は相変わらず美しかった。
スーツ姿ではなく私服だったが、それが新鮮だった。真っ赤なワンピースは彼女にとても良く似合っていた。
「久しぶりね!」
「ご無沙汰してます」
買ってきたらしいコンビニではないお洒落な弁当を広げ、お土産とデザートをくれた。
昼にカカシさんではない人と食べるのは久々だ
。
総務部にいた時はよく同僚や先輩といろんな所に出かけて食べたりしていた。
そういえば昼だけでなく最近はカカシさん以外と食べたり出かけたりするのがなかった。秘書という職業上人に会うと情報漏洩になりかねないので会えないのは仕方ないが、少し寂しく感じる。
「仕事、どう?慣れた?カカシ我侭で大変でしょ?」
「いえ、そんなことはないですよ。よくしてくださって」
「あんなのと付き合ってるんでしょ?仕事以外で付き合えるなんて、ホント良くやるわ」
「あ、えっ、えっと・・・」
まさか付き合っていることを知られているとは思わず、かぁぁっと顔が赤くなった。
「やだ、赤くなっちゃってかわいー」
「やめてくださいよ」
クスクスと笑われなんだかとても気恥ずかしい。
「恋人が上司って大変じゃない?」
「そんなことはないです。カカシさんオンオフの切り替えキチンとしてますし」
「へぇ、アイツがねぇ」
釈然としないような顔をする。
「付き合ってるって聞いたときはカカシが上司命令で迫ったのかと思ったんだけど」
「さすがにそんなことはないですよ」
「そうよね~、さすがにそんなことしないわよね~」
妖艶に微笑みながら弁当をつつく。
彼女の手は、白い指に赤いマニキュアが塗られ洗練された美しさがある。
比べて俺は太いごつごつとした指で手入れなどしないので赤切れもある。
なんだかそれが俺と彼女との差を表しているみたいで泣けてくる。
今更容姿などかえられない。勿論女になどなれない。だからせめて仕事だけでも。
それだけは、唯一努力すればなんとかなることだから。
「あのっ、紅さん!もう一度仕事のこと教えてもらってもいいですか」
「あら?なにかトラブルでもあったの?」
「いえ。もっと社長の役に立ちたいです!」
「まぁ」
力説すると感心したように声を上げた。
「前から思っていたけどイルカって本当にいい子ねぇ。真っ直ぐで優しくて。カカシには勿体ないわ。もういっそのことウチの養子にしたい」
「よ、養子ですか・・・」
それは喜んでいいのか分からない言葉だ。まったく異性としては勿論、大人として見られていない気がする。
苦笑すると、フフフと妖艶に微笑まれた。
「それで。どんなことから教えたらいいかしら?接待?企業先への訪問の仕方?気難しい職員への対応かしら?」
「えっ、と・・・?」
どれも聞いたことのない業務だった。
キョトンとする俺を見て紅さんは眉を顰めた。
「・・・・・・イルカ、貴方普段どんな仕事をしてるの?」
「えっと、主に社長のスケジュール管理と電話対応です。それと社長の雑務とか・・・」
「はあぁぁあぁ!?」
紅さんは顔を歪ませて叫んだ。
美人だけに凄んだ顔は恐怖だった。
「え?え?」
「来客の対応は?企業への訪問や職員への伝達は?私教えたわよね?」
そう言えば引き継ぎの日に、そういうことも教わったが、次の日しようとするとカカシさんから止められた。業務内容が変更になったとか言われた。そんなことよりも大事なことがあると、主に社長の周りでできるのとを教えてくれた。仕事に慣れるのににいっぱいいっぱいだったから違うと言われればその通り従った。
「え?えっと、そういうのはしなくていいと、社長が・・・」
途端、紅さんの顔が般若になった。
「アイツ・・・っ!プライベートに仕事持ち込んでないけど、仕事にプライベート持ち込んでるじゃないっ!」
どういう意味だろう。
戸惑っていると、はぁとため息をついた紅さんが、ぽんと肩を叩いた。
「イルカ。今貴方がしている業務は半分ぐらいよ。来客の対応や企業への訪問、職員への伝達も秘書の大切な仕事よ」
「え・・・」
やはりそうなのか。
じゃあなんで俺にはさせなかったのだろう。
(きっと慣れるまで業務を減らしてくれたんだ・・・)
そう思ったが、もう一年である。こんなに長い時間かける必要はあっただろうか。
総務課にいた頃だって、半年でそれなりの大きな仕事を任された。
それに・・・。
来客の対応。
企業への訪問。
職員への伝達。
全て接客業務だった。ここまで徹底してあると、故意に外部と接触させないように感じる。
(まさか・・・)
俺は一つの仮定にたどり着いた。
もしかして、俺人前に出すには恥ずかしいヤツだと思われてる・・・?
確かに前任の紅さんは美しく有能だった。その代わりの俺はまるで正反対の地味で仕事ができない。
だから隠しているのか?人前に出さないのか?
それなら。
それならとても悲しい。
「俺、・・・・・・俺、そんなに使えない奴でしょうか」
言葉にするととても寂しい現状だった。
今まで社長の力になりたくて彼の指示に従って精いっぱいやってきたつもりだ。だが、それは無意味で何一つ成果を上げれてなかったのだ。
最初から期待などされていなかった。
俺ができる最低限の仕事しか与えてくれなかった。
それが全てだった。
(そっか・・・)
自身をできる方だとは思っていなかったが、こんなにも無力だったのか。
彼に相応しい人になりたいとずっと思っていたのに。
言われてみれば、プライベートでも誰にも面と向かって紹介されたことはない。親は死んだと聞いているが、親戚や友人等とは会ったことがない。紅が初めてで、本当はどんな風に紹介されているのかわからない。紹介するのが恥ずかしいと思われているのかもしれない。
俺がしていない仕事は、誰がしているのだろうか。
ふとその事が頭によぎった。
流石に誰もしていないわけにもいかないであろう。大事な仕事なのだから。
主に接客業務だ。この秘書室にいなくてもできる。だから俺と顔を合わせなくても出来る。
外で働いているのだろうか。
どんな人なのだろうか。
紅さんみたいに、仕事が出来て、美人で、彼といても見劣りしない人だろうか。
その人は自分こそが本物の秘書だと色んな人に堂々の言えるのだろうか。
まてよ。
そう言えば彼は俺と誰かが話すことを極度に嫌った。秘書として秘密義務があるからとは言われたが。
あれは。
あれは、もしかして不利な情報を俺の耳に入れないためではないだろうか。
そう言えばアレもコレも思い当たる節がありすぎる。休みの日は勿論平日の行き帰りは常に一緒で外出など殆どない。飲み会は禁止。友人に会うのも禁止。電話も禁止。考えることすら禁止だと言われた。
『秘書の仕事はプライベートなんてないの。ずっとずっと社長であるオレのこと考えてないとダメなの』
そう蕩けるような笑みで言ってくれた時は大変な仕事だけど精一杯頑張ろうと思ったのに。
何故、彼はそんな事をしているのだろう。優秀な人がいるなら俺なんか必要ないのに。
(まさか・・・)
彼は平凡な男顔が好きとかいう特殊性癖で俺がどストライクだけど、世間一般には受け入れられないのを知っているから、適当な職務につかせて世間から隠しつつ囲っているのか・・・っ!?
(なんかしっくりきた!)
最近世間を騒がせているどこかの偉い社長さんが、秘書と称して愛人を囲っていたというニュースを思い出す。その社長は既婚者なので女とふたりっきりなど外で大っぴろげに会えないが、秘書となら怪しまれないとして愛人に就かせ、平日の昼間っから如何わしいホテルに入った写真が撮られていた。
つまり、彼は俺の存在を隠したいがため、そして俺が誰かに言いふらさないために秘書の名前を付けているが、正式な秘書は別にいて俺がしていない仕事をキチンとしているのだ。
当たってはいないが外れてもいない。微妙な勘違いをしつつ、少しだけだがカカシの思惑にようやく気がついたイルカだった。
「イルカが使えないわけないわ!あのバカが独占欲が強すぎて」
「いえ、いいんです」
紅さんの言葉を止める。きっと優しい紅さんはフォローしてくれるのだろうが、そんな優しさに甘えていてはいけないのだ。
そもそも俺が仕事ができないのが悪いのだ。
俺が本来の全ての仕事ができれば、きっとカカシさんは見直してくれる。名前だけではなく正式に秘書として雇ってくれるだろう。
恋人と公表してほしいわけではないから、恋人として紹介されなくてもいい。そこまでは望まない。だから仕事だけでも、彼のきちんとした秘書でありたい。
「あの、紅さん!俺に仕事を教えてください。紅さんがしていた仕事、全て」
そう言うと紅さんは目を見開き。
ーーーそしてニヤッと笑った。
「そうね。私がみっちり教えてあげるわ」
「イルカ、帰ったよー」
ご機嫌な様子で彼が戻った。
「お疲れさまです。コーヒーをお持ちしましょうか?」
「うん、お願い。んー疲れたよ。ちょっと休憩しよ?三十分ぐらい、二人でさ。いいで」
そこでようやく紅さんに気がついた。
カカシさんは露骨に顔を歪めた。
「げっ、紅!?お前何しに来たんだよ。熊はここにはいなーいよ。さっさと熊つれて山に帰ったら?」
そういいながらさり気なく俺の傍に来た。
「イルカ、変なコトされなかった?」
そう言いながら手を取り頬擦りする。まるで犬のような愛くるしい表情は完全にオフの状態だ。
なんだかそれが嬉しいはずなのに、ツンと鼻の奥が痛かった。
何故だろう。カカシさんは何も悪くないのに。
「アンタねぇ、なぁに職権乱用してるのよ」
「・・・・・・はぁ?何のこと?」
口調は淡々としてそう言いながらも目が泳いでいた。
「アンタがイルカのこと飼い殺ししてることはお見通しなんだからね!!」
「・・・飼い殺しって何よ。ちゃんと働いてもらってるでしょ。それにイルカって軽々しく呼ぶのヤメテ」
「なぁに私まで嫉妬してんのよ!会社舐めてんじゃないわよ!アンタがアスマと付き合う時やたら応援してきておかしいとは思ったけど、社内で体で仕事も男もとる女だって噂になったとき真剣に相談にのってくれて、純粋に応援してくれているって感動した私がバカだったわ。アレはさっさと私を辞めさせてイルカを秘書につかせたかっただけでしょ!?」
「っ、・・・紅には関係ないでしょ?アンタ辞めた身なんだから」
「・・・・・・ふーん。あっそう」
美しい顔を歪ませて、胸元から携帯を取り出した。
「そんなこと言うなら、関係者であるお義父さまに電話しましょうか?流石にこの会社の20%の株をもっているお義父さまなら社長の肩書きなんて気持ち次第でしょうねぇ」
それを聞いた途端カカシさんの顔は青ざめた。
「そこまでするの!?」
「当たり前でしょ!こんないい子騙しておいてほっとけないわ」
「騙してなんかっ」
ギロッと睨まれ、流石にカカシさんは黙った。
俺は話の内容にちっともついていけなくてただポカンと聞いていたが、内容なんてさっぱりだった。
ただ、分かったことは。
(紅さんは、怒らせると怖い)
「イルカ」
さっきとはうってかわって優しい声で呼ばれて、逆に怖かった。
「はひぃ!」
「仕事みっちり教えてあげるわ。私の経験や知識全部教えてあげる。やりたいこと全てしなさい。邪魔はさせないから」
「・・・はい」
優しく力強い言葉がジーンと胸を打つ。カカシさんは歯痒そうにこちらを睨んでいた。
「ほら、仕事するから邪魔よ。カカシはあっち行って」
「はぁ?イルカをアンタと二人っきりにさせるわけ」
「うるさいわねぇ、どれだけ心狭いの!男ならドーンと構えてなさい!」
「そういう男女差別はセクハ」
言い終わる前にさっさと追い出し、ドアをすごい勢いで閉めた。どこかに当たったのかドアの向こうで悲鳴があがった。
「さっ、さっさとしましょう」
「は、はい・・・」
「イルカ。そろそろ帰ろ?」
先程から十分に一度聞かされるセリフに、チラッと顔を上げた。
思った通りさっきから十分しかたっておらず、定時は過ぎていたがまだ外は明るい。
「社長、すみません。まだ仕事が残ってますので」
先程から繰り返している言葉をいうと、あからさまにシュンとされて良心はチクチクと傷んだ。
「でも、ほら、もう少しで『わんにゃん動物園』が始まっちゃうし」
「すみません、どうしても今日これだけしておきたいので、お一人で先に帰宅されてください」
紅さんは丁寧に教えてくれ、時間がないのでマニュアルまで作成して帰っていった。せっかくなので忘れる前にきちんとしておきたい。
一心不乱に仕事をしていると、視線を感じて顔を上げた。すると、カカシさんが微動だにせず俯き加減で立っていた。
「社長、あの・・・」
「ねぇイルカ。怒っているの?怒っているからこんなことするの?」
ヒンヤリとした声にサーッと頭が真っ白になった。
それは怒気を含んだような鋭さと、泣いてしまいそうな切なさがあった。
「お、怒るって、そんな・・・」
「確かに紅のときと、イルカの時とでは仕事内容が違うよ」
ハッキリと彼の口から言われて、やっぱりと分かってたはずなのに、どこか胸を突き刺されたような痛みが走る。
やっぱり、俺が使えないから・・・。
「でも、それは人が代わったんだから当たり前のことでしょ?紅にできてイルカにできないことはあるし、逆にイルカにしかできないことだってあるんだから」
「お、俺にしかできないこと・・・?」
考えてみても、思いつかなかった。
力仕事?電球をかえること?珈琲を入れること?肩もみとか?
どれも誰でもできる仕事だった。
「この会社で一番なくてはならない人って誰?」
「そ、それは勿論社長です!」
「そうでしょ?オレが倒れたら大変でしょ?」
当たり前のことなので何度も頷くと、満足そうに笑った。
「オレが倒れないためには、イルカが必要なの」
「え?」
「オレの体調管理とか精神安定とか全部イルカがしてくれているから、だからオレ頑張れるの。それって誰でもできることじゃないんだよ」
「そんな、オレは・・・」
そんなこと言われても特別何かしているわけではない。言われたことを淡々としていただけだ。
「イルカはオレが言う前に珈琲だしてくれたり、肩もみしてくれるでしょ?いっつもオレがしてほしいと思う前にしてくれるでしょ?それってずっとオレのこと考えてくれてて見ているからでしょ?」
そう、なのかな。
でもカカシさんにそんなに強く言われるとそんな気がしてきた。
「そうやってね、オレのことイルカが全部してくれるから、オレは会社のことだけ考えていられるの。お陰で今年も成績良かったでしょ?」
確かに去年と比べて純利益は増えている。
それって少しでも俺の仕事の成果、なのか・・・。
そう思うとなんだかとてつもない偉業をやり遂げた気になってきた。
「そ、うですか・・・?」
「そうだよ。だから紅と仕事内容が違っていても関係ないの。そんな仕事より大事なことしてもらってるんだから」
「そうですか・・・!」
そうか。彼はよく、俺にしかできない仕事を任せたいと言っていたが、あれはつまりそう言うことなのか。
俺にしか頼めない体調管理とか精神安定とか任されていたのか!
「社長、俺間違ってました!」
「分かってくれた?」
「はい!俺、これからももっと社長が仕事に集中できるよう、社長のことだけ考えています!」
「!!そう!」
カカシさんはとても嬉しそうに微笑んだ。
「社長の体調管理とか身の回りのこととか全てさせてください!」
「ウン。勿論だよ」
そう言いながら目を細め、俺の髪に唇を落とした。優しいキスだった。
「オレ、イルカがいてくれたら、それだけでやっていけるから・・・」
頭の上で呟いた言葉は小さくていつものカカシさんでは想像できない程弱々しかった。
「カカシさん・・・?」
覗き込むように見上げると、彼は静かに微笑んでいた。
「さ、イルカ。オレお腹すいたから帰ろ。早くイルカの手料理食べないと明日の業務できないかもきれない・・・」
「えぇ!?あ、すみません。帰りましょう」
慌てて片付ける。明日は朝一からまた会議があるから何かあったら大変だ。
彼の管理をするのが俺の仕事なのだから。
そう思うと責任の重さにブルッと震えたが、その重さが心地よかった。
俺の頑張りは全て彼のためになるのだから。
「今日疲れたから『わんにゃん動物園』みないと精神安定できない。ストレスで死んじゃう」
「それなら早く帰らないと!夕飯は鍋焼きうどんでいいですか?」
「うん。あと膝枕して耳掻きして。耳掃除しないと大事な話が聞こえない」
「はい!」
「それからエッチは三回ね。最初はオレがバター犬になるから。二回目はイルカがワンコね。三回目は獣のような激しいのシよ」
「え?いや、それは・・・」
「ダメ。三回しないと明日の会議ヤル気出ない。明日は大事な会議だから、精神的にも性欲的にもスッキリしてないと差し障るから!これもイルカしかできない大事な仕事だよ!」
「は、はい!」
俺しかできない大事な仕事。
その言葉は俺の自尊心と男して社会人としてのプライドを擽る言葉だった。
そうだ。大切な社長の体調管理なのだから、しっかりしないと。俺にしか、できないのだから。
「俺、頑張ります」
気合いを入れて鞄を持つと、車まで猛ダッシュした。勿論ワンコプレイにハマったカカシが三回などでは終わらず、イルカはカカシの精神安定のため次の日有給休暇をとった。
ピンチをチャンスに変え、そしてチャンスは死んでも離さない。それが経営者、畑カカシ。世間知らずのイルカが彼の真意に気づくことは・・・、ないのかもしれない。
新聞のテレビ欄を見せながら興奮気味の可愛らしい恋人を見る。
先日、様々な動物の生態を特集する『わんにゃん動物園』を何気なしに二人で見ると思った以上に可愛らしく、健気な動作に二人してハマり最近欠かさず見るようになった。
特にカカシさんは犬にハマったらしくいつか飼いたいとまで言っている。
「じゃあ今日は頑張って仕事終わらせましょうね」
「うんっ」
えへえへと笑いながら新聞を読んでいる。
経営者として情報を得るため朝新聞を読むのは欠かさないが、オフのときのカカシさんはよく脱線してやれ芸能人がどうしたとか宝くじがどうしたとか言ってくる。
その表情が無邪気な子どものようで、俺もついつい構ってしまう。そして遅刻ギリギリになるという悪循環だ。
彼に甘いのは、重々承知しており改善しようとするが中々上手くいかない。それもこれも彼が可愛らしすぎるからいけないのだ。
「ねぇーイルカー、今日のネクタイどっちがいいー?」
皿を洗い終わるとカカシさんがオレンジと緑のネクタイを見せた。
「んー、今日は重役の方と会食があるので緑がいいじゃないですか」
「ん、緑ねー」
きゅっと綺麗に結ぶ。
不器用な彼が上手くできる数少ない事柄だ。
「イルカもお揃いにしよーよ」
「えー、あったかなぁ」
男同士だとこういう貸し借りができて便利だ。
特にネクタイはサイズがないので彼と共有できる。同じ柄の色違いを見つけ首に巻いた。
「オレがしてあげる」
そう言って手早く結んでくれる。
綺麗な長い指が動く姿は優雅で美しくほぅと見とれてしまう。
あの指が、昨晩も俺の体を這い、翻弄していった。
そんなことをふと思い出してしまい、顔が赤くなってしまった。
朝っぱらから俺は何てことを・・・!
「イルカ?どうしたの?顔、赤いよ」
クスッと笑いながら頬をなでられた。
分かってるくせに。
コイツもしかしてわざとか・・・っ!
むぅっと膨れるとクスクス笑いながらごめーんねと謝られた。
「イルカって本当可愛い」
「可愛くなんかないです」
「可愛いよ。オレ、イルカ特集してたら録画してずっと見てるよ」
なんだか変態チックな言い回しだ。だが彼ならやりかねない気がする。
ぎゅっと彼が抱き着いた。
「今日は早く仕事終わらせて、お家でのんびりテレビ見ようね。それで、夜はワンコプレイしよ?」
「なっ!?」
先週ワンコ特集で二人して興奮してそのままベッドに向かった。あの時のプレイを思い出すと顔から火が出そうだ。
「ぜ、絶対しません!」
「えー何でー?イルカすっごく可愛かったのに」
「ダメです!」
「えー!あっ、じゃあオレがワンコになるよ。バター犬ね」
「もぅ!」
軽く叩くと痛いと笑いながら身をよじった。
そんなことをしているとあっという間に遅刻ギリギリの時刻になる。
「カカシさん!遅刻ですよ!」
「ちぇっ。はぁい」
ちゅっと素早く頬にキスすると二人分鞄を持って俺の腰に手を置いた。
スマートなエスコートに一人でドキドキしながら会社に向かった。
「海野くん、今日の予定分かってるね?」
「はい、社長は15時まで会食込みの会議となりますので、私はここで電話対応や庶務をしています」
「お昼もなにがあるか分からないからここで一人で昼食をとるように」
「はい」
連日言われていたスケジュールを確認する。
いつもどおり、社長がいない昼食のことは注意される。会議中に限って大事な電話がくることが多いためだ。俺が秘書になってからはそんなにないが、よくあることなので注意していないといけない、らしい。
最近電話対応が上手くなったねと社長から褒められたのだ。
ここで極めて、もっと社長に尽くしたい。
認められて、使える人だと思われたい。
いつものように軽くキスをし、社長はキリッとした顔で出ていった。
一人きりになった秘書室で溜まっていた領収書の整理をする。
体を動かす仕事も好きだが、こういうデスクワークも中々楽しい。小さいことだが社長に通じる仕事をして、彼の役に立っていると実感できる。
意気込んで仕事をしていると電話が鳴った。
「はい、秘書の海野です」
「イルカ!久しぶり、分かるかしら?」
「紅さん?」
紅とは俺の前に秘書をしていた先輩だ。入社当時から話題の人で、とても美人なのに仕事もできるというまさに高嶺の花だ。もっとも、俺が秘書になるのと入れ替わる形で営業部エースと結婚し寿退社した。当時は泣き崩れる男で社内は騒然としたらしい。
「お久しぶりです!どうされたんですか?」
引き継ぎのため数時間だが言葉を交わしたことがある。偉ぶることなくあっさりとした人柄で分かりやすく教えてくれ、俺の憧れの人だ。
「ちょっと近くに立ち寄ってね、久しぶりだし顔見せようかと思って。カカシいる?」
彼女は彼のことをカカシと呼ぶ。かなり前からの腐れ縁だと言うが、当初はモヤモヤとした。
彼女は美人で仕事もできる。性格もいい。
彼の隣にいても引け劣らず、公私共々いいパートナーとなるだろう。実際そういう噂は何度か聞いたことがある。
正直彼女が寿退社して一番喜んでいるのは俺だ。もし彼女と一緒に仕事をしていたら、彼女と比べられたら、俺は何一つとして勝てない。きっとカカシさんも俺のことを好きになることなどなかっただろう。
だからこそ一日でも早く彼女並の仕事をしたいと思っている。最も、未だ仕事ぶりは彼女の足元にも及ばないが。
「社長は只今会議中です」
「あら、そうなの。ねっ、そろそろ昼休みでしょ?出てこない?」
「えっ、と・・・」
是非行きたいが社長から大事な電話があると言われているため席を外せない。
「すみません。大事な電話があるので・・・」
「電話ぁ!?」
なぜか大声で叫ばれた。耳がキーンとなる。
「昼休みは休憩時間でしょ?きちんと休まなきゃダメよ」
「でも・・・」
「まぁいいわ。じゃあ私が弁当買って行くから」
あとでね、と電話が切れた。
突然の来客だったが、彼女に会えるのは嬉しい。
せっかくなので仕事について聞いてみようと思った。
久々に会った彼女は相変わらず美しかった。
スーツ姿ではなく私服だったが、それが新鮮だった。真っ赤なワンピースは彼女にとても良く似合っていた。
「久しぶりね!」
「ご無沙汰してます」
買ってきたらしいコンビニではないお洒落な弁当を広げ、お土産とデザートをくれた。
昼にカカシさんではない人と食べるのは久々だ
。
総務部にいた時はよく同僚や先輩といろんな所に出かけて食べたりしていた。
そういえば昼だけでなく最近はカカシさん以外と食べたり出かけたりするのがなかった。秘書という職業上人に会うと情報漏洩になりかねないので会えないのは仕方ないが、少し寂しく感じる。
「仕事、どう?慣れた?カカシ我侭で大変でしょ?」
「いえ、そんなことはないですよ。よくしてくださって」
「あんなのと付き合ってるんでしょ?仕事以外で付き合えるなんて、ホント良くやるわ」
「あ、えっ、えっと・・・」
まさか付き合っていることを知られているとは思わず、かぁぁっと顔が赤くなった。
「やだ、赤くなっちゃってかわいー」
「やめてくださいよ」
クスクスと笑われなんだかとても気恥ずかしい。
「恋人が上司って大変じゃない?」
「そんなことはないです。カカシさんオンオフの切り替えキチンとしてますし」
「へぇ、アイツがねぇ」
釈然としないような顔をする。
「付き合ってるって聞いたときはカカシが上司命令で迫ったのかと思ったんだけど」
「さすがにそんなことはないですよ」
「そうよね~、さすがにそんなことしないわよね~」
妖艶に微笑みながら弁当をつつく。
彼女の手は、白い指に赤いマニキュアが塗られ洗練された美しさがある。
比べて俺は太いごつごつとした指で手入れなどしないので赤切れもある。
なんだかそれが俺と彼女との差を表しているみたいで泣けてくる。
今更容姿などかえられない。勿論女になどなれない。だからせめて仕事だけでも。
それだけは、唯一努力すればなんとかなることだから。
「あのっ、紅さん!もう一度仕事のこと教えてもらってもいいですか」
「あら?なにかトラブルでもあったの?」
「いえ。もっと社長の役に立ちたいです!」
「まぁ」
力説すると感心したように声を上げた。
「前から思っていたけどイルカって本当にいい子ねぇ。真っ直ぐで優しくて。カカシには勿体ないわ。もういっそのことウチの養子にしたい」
「よ、養子ですか・・・」
それは喜んでいいのか分からない言葉だ。まったく異性としては勿論、大人として見られていない気がする。
苦笑すると、フフフと妖艶に微笑まれた。
「それで。どんなことから教えたらいいかしら?接待?企業先への訪問の仕方?気難しい職員への対応かしら?」
「えっ、と・・・?」
どれも聞いたことのない業務だった。
キョトンとする俺を見て紅さんは眉を顰めた。
「・・・・・・イルカ、貴方普段どんな仕事をしてるの?」
「えっと、主に社長のスケジュール管理と電話対応です。それと社長の雑務とか・・・」
「はあぁぁあぁ!?」
紅さんは顔を歪ませて叫んだ。
美人だけに凄んだ顔は恐怖だった。
「え?え?」
「来客の対応は?企業への訪問や職員への伝達は?私教えたわよね?」
そう言えば引き継ぎの日に、そういうことも教わったが、次の日しようとするとカカシさんから止められた。業務内容が変更になったとか言われた。そんなことよりも大事なことがあると、主に社長の周りでできるのとを教えてくれた。仕事に慣れるのににいっぱいいっぱいだったから違うと言われればその通り従った。
「え?えっと、そういうのはしなくていいと、社長が・・・」
途端、紅さんの顔が般若になった。
「アイツ・・・っ!プライベートに仕事持ち込んでないけど、仕事にプライベート持ち込んでるじゃないっ!」
どういう意味だろう。
戸惑っていると、はぁとため息をついた紅さんが、ぽんと肩を叩いた。
「イルカ。今貴方がしている業務は半分ぐらいよ。来客の対応や企業への訪問、職員への伝達も秘書の大切な仕事よ」
「え・・・」
やはりそうなのか。
じゃあなんで俺にはさせなかったのだろう。
(きっと慣れるまで業務を減らしてくれたんだ・・・)
そう思ったが、もう一年である。こんなに長い時間かける必要はあっただろうか。
総務課にいた頃だって、半年でそれなりの大きな仕事を任された。
それに・・・。
来客の対応。
企業への訪問。
職員への伝達。
全て接客業務だった。ここまで徹底してあると、故意に外部と接触させないように感じる。
(まさか・・・)
俺は一つの仮定にたどり着いた。
もしかして、俺人前に出すには恥ずかしいヤツだと思われてる・・・?
確かに前任の紅さんは美しく有能だった。その代わりの俺はまるで正反対の地味で仕事ができない。
だから隠しているのか?人前に出さないのか?
それなら。
それならとても悲しい。
「俺、・・・・・・俺、そんなに使えない奴でしょうか」
言葉にするととても寂しい現状だった。
今まで社長の力になりたくて彼の指示に従って精いっぱいやってきたつもりだ。だが、それは無意味で何一つ成果を上げれてなかったのだ。
最初から期待などされていなかった。
俺ができる最低限の仕事しか与えてくれなかった。
それが全てだった。
(そっか・・・)
自身をできる方だとは思っていなかったが、こんなにも無力だったのか。
彼に相応しい人になりたいとずっと思っていたのに。
言われてみれば、プライベートでも誰にも面と向かって紹介されたことはない。親は死んだと聞いているが、親戚や友人等とは会ったことがない。紅が初めてで、本当はどんな風に紹介されているのかわからない。紹介するのが恥ずかしいと思われているのかもしれない。
俺がしていない仕事は、誰がしているのだろうか。
ふとその事が頭によぎった。
流石に誰もしていないわけにもいかないであろう。大事な仕事なのだから。
主に接客業務だ。この秘書室にいなくてもできる。だから俺と顔を合わせなくても出来る。
外で働いているのだろうか。
どんな人なのだろうか。
紅さんみたいに、仕事が出来て、美人で、彼といても見劣りしない人だろうか。
その人は自分こそが本物の秘書だと色んな人に堂々の言えるのだろうか。
まてよ。
そう言えば彼は俺と誰かが話すことを極度に嫌った。秘書として秘密義務があるからとは言われたが。
あれは。
あれは、もしかして不利な情報を俺の耳に入れないためではないだろうか。
そう言えばアレもコレも思い当たる節がありすぎる。休みの日は勿論平日の行き帰りは常に一緒で外出など殆どない。飲み会は禁止。友人に会うのも禁止。電話も禁止。考えることすら禁止だと言われた。
『秘書の仕事はプライベートなんてないの。ずっとずっと社長であるオレのこと考えてないとダメなの』
そう蕩けるような笑みで言ってくれた時は大変な仕事だけど精一杯頑張ろうと思ったのに。
何故、彼はそんな事をしているのだろう。優秀な人がいるなら俺なんか必要ないのに。
(まさか・・・)
彼は平凡な男顔が好きとかいう特殊性癖で俺がどストライクだけど、世間一般には受け入れられないのを知っているから、適当な職務につかせて世間から隠しつつ囲っているのか・・・っ!?
(なんかしっくりきた!)
最近世間を騒がせているどこかの偉い社長さんが、秘書と称して愛人を囲っていたというニュースを思い出す。その社長は既婚者なので女とふたりっきりなど外で大っぴろげに会えないが、秘書となら怪しまれないとして愛人に就かせ、平日の昼間っから如何わしいホテルに入った写真が撮られていた。
つまり、彼は俺の存在を隠したいがため、そして俺が誰かに言いふらさないために秘書の名前を付けているが、正式な秘書は別にいて俺がしていない仕事をキチンとしているのだ。
当たってはいないが外れてもいない。微妙な勘違いをしつつ、少しだけだがカカシの思惑にようやく気がついたイルカだった。
「イルカが使えないわけないわ!あのバカが独占欲が強すぎて」
「いえ、いいんです」
紅さんの言葉を止める。きっと優しい紅さんはフォローしてくれるのだろうが、そんな優しさに甘えていてはいけないのだ。
そもそも俺が仕事ができないのが悪いのだ。
俺が本来の全ての仕事ができれば、きっとカカシさんは見直してくれる。名前だけではなく正式に秘書として雇ってくれるだろう。
恋人と公表してほしいわけではないから、恋人として紹介されなくてもいい。そこまでは望まない。だから仕事だけでも、彼のきちんとした秘書でありたい。
「あの、紅さん!俺に仕事を教えてください。紅さんがしていた仕事、全て」
そう言うと紅さんは目を見開き。
ーーーそしてニヤッと笑った。
「そうね。私がみっちり教えてあげるわ」
「イルカ、帰ったよー」
ご機嫌な様子で彼が戻った。
「お疲れさまです。コーヒーをお持ちしましょうか?」
「うん、お願い。んー疲れたよ。ちょっと休憩しよ?三十分ぐらい、二人でさ。いいで」
そこでようやく紅さんに気がついた。
カカシさんは露骨に顔を歪めた。
「げっ、紅!?お前何しに来たんだよ。熊はここにはいなーいよ。さっさと熊つれて山に帰ったら?」
そういいながらさり気なく俺の傍に来た。
「イルカ、変なコトされなかった?」
そう言いながら手を取り頬擦りする。まるで犬のような愛くるしい表情は完全にオフの状態だ。
なんだかそれが嬉しいはずなのに、ツンと鼻の奥が痛かった。
何故だろう。カカシさんは何も悪くないのに。
「アンタねぇ、なぁに職権乱用してるのよ」
「・・・・・・はぁ?何のこと?」
口調は淡々としてそう言いながらも目が泳いでいた。
「アンタがイルカのこと飼い殺ししてることはお見通しなんだからね!!」
「・・・飼い殺しって何よ。ちゃんと働いてもらってるでしょ。それにイルカって軽々しく呼ぶのヤメテ」
「なぁに私まで嫉妬してんのよ!会社舐めてんじゃないわよ!アンタがアスマと付き合う時やたら応援してきておかしいとは思ったけど、社内で体で仕事も男もとる女だって噂になったとき真剣に相談にのってくれて、純粋に応援してくれているって感動した私がバカだったわ。アレはさっさと私を辞めさせてイルカを秘書につかせたかっただけでしょ!?」
「っ、・・・紅には関係ないでしょ?アンタ辞めた身なんだから」
「・・・・・・ふーん。あっそう」
美しい顔を歪ませて、胸元から携帯を取り出した。
「そんなこと言うなら、関係者であるお義父さまに電話しましょうか?流石にこの会社の20%の株をもっているお義父さまなら社長の肩書きなんて気持ち次第でしょうねぇ」
それを聞いた途端カカシさんの顔は青ざめた。
「そこまでするの!?」
「当たり前でしょ!こんないい子騙しておいてほっとけないわ」
「騙してなんかっ」
ギロッと睨まれ、流石にカカシさんは黙った。
俺は話の内容にちっともついていけなくてただポカンと聞いていたが、内容なんてさっぱりだった。
ただ、分かったことは。
(紅さんは、怒らせると怖い)
「イルカ」
さっきとはうってかわって優しい声で呼ばれて、逆に怖かった。
「はひぃ!」
「仕事みっちり教えてあげるわ。私の経験や知識全部教えてあげる。やりたいこと全てしなさい。邪魔はさせないから」
「・・・はい」
優しく力強い言葉がジーンと胸を打つ。カカシさんは歯痒そうにこちらを睨んでいた。
「ほら、仕事するから邪魔よ。カカシはあっち行って」
「はぁ?イルカをアンタと二人っきりにさせるわけ」
「うるさいわねぇ、どれだけ心狭いの!男ならドーンと構えてなさい!」
「そういう男女差別はセクハ」
言い終わる前にさっさと追い出し、ドアをすごい勢いで閉めた。どこかに当たったのかドアの向こうで悲鳴があがった。
「さっ、さっさとしましょう」
「は、はい・・・」
「イルカ。そろそろ帰ろ?」
先程から十分に一度聞かされるセリフに、チラッと顔を上げた。
思った通りさっきから十分しかたっておらず、定時は過ぎていたがまだ外は明るい。
「社長、すみません。まだ仕事が残ってますので」
先程から繰り返している言葉をいうと、あからさまにシュンとされて良心はチクチクと傷んだ。
「でも、ほら、もう少しで『わんにゃん動物園』が始まっちゃうし」
「すみません、どうしても今日これだけしておきたいので、お一人で先に帰宅されてください」
紅さんは丁寧に教えてくれ、時間がないのでマニュアルまで作成して帰っていった。せっかくなので忘れる前にきちんとしておきたい。
一心不乱に仕事をしていると、視線を感じて顔を上げた。すると、カカシさんが微動だにせず俯き加減で立っていた。
「社長、あの・・・」
「ねぇイルカ。怒っているの?怒っているからこんなことするの?」
ヒンヤリとした声にサーッと頭が真っ白になった。
それは怒気を含んだような鋭さと、泣いてしまいそうな切なさがあった。
「お、怒るって、そんな・・・」
「確かに紅のときと、イルカの時とでは仕事内容が違うよ」
ハッキリと彼の口から言われて、やっぱりと分かってたはずなのに、どこか胸を突き刺されたような痛みが走る。
やっぱり、俺が使えないから・・・。
「でも、それは人が代わったんだから当たり前のことでしょ?紅にできてイルカにできないことはあるし、逆にイルカにしかできないことだってあるんだから」
「お、俺にしかできないこと・・・?」
考えてみても、思いつかなかった。
力仕事?電球をかえること?珈琲を入れること?肩もみとか?
どれも誰でもできる仕事だった。
「この会社で一番なくてはならない人って誰?」
「そ、それは勿論社長です!」
「そうでしょ?オレが倒れたら大変でしょ?」
当たり前のことなので何度も頷くと、満足そうに笑った。
「オレが倒れないためには、イルカが必要なの」
「え?」
「オレの体調管理とか精神安定とか全部イルカがしてくれているから、だからオレ頑張れるの。それって誰でもできることじゃないんだよ」
「そんな、オレは・・・」
そんなこと言われても特別何かしているわけではない。言われたことを淡々としていただけだ。
「イルカはオレが言う前に珈琲だしてくれたり、肩もみしてくれるでしょ?いっつもオレがしてほしいと思う前にしてくれるでしょ?それってずっとオレのこと考えてくれてて見ているからでしょ?」
そう、なのかな。
でもカカシさんにそんなに強く言われるとそんな気がしてきた。
「そうやってね、オレのことイルカが全部してくれるから、オレは会社のことだけ考えていられるの。お陰で今年も成績良かったでしょ?」
確かに去年と比べて純利益は増えている。
それって少しでも俺の仕事の成果、なのか・・・。
そう思うとなんだかとてつもない偉業をやり遂げた気になってきた。
「そ、うですか・・・?」
「そうだよ。だから紅と仕事内容が違っていても関係ないの。そんな仕事より大事なことしてもらってるんだから」
「そうですか・・・!」
そうか。彼はよく、俺にしかできない仕事を任せたいと言っていたが、あれはつまりそう言うことなのか。
俺にしか頼めない体調管理とか精神安定とか任されていたのか!
「社長、俺間違ってました!」
「分かってくれた?」
「はい!俺、これからももっと社長が仕事に集中できるよう、社長のことだけ考えています!」
「!!そう!」
カカシさんはとても嬉しそうに微笑んだ。
「社長の体調管理とか身の回りのこととか全てさせてください!」
「ウン。勿論だよ」
そう言いながら目を細め、俺の髪に唇を落とした。優しいキスだった。
「オレ、イルカがいてくれたら、それだけでやっていけるから・・・」
頭の上で呟いた言葉は小さくていつものカカシさんでは想像できない程弱々しかった。
「カカシさん・・・?」
覗き込むように見上げると、彼は静かに微笑んでいた。
「さ、イルカ。オレお腹すいたから帰ろ。早くイルカの手料理食べないと明日の業務できないかもきれない・・・」
「えぇ!?あ、すみません。帰りましょう」
慌てて片付ける。明日は朝一からまた会議があるから何かあったら大変だ。
彼の管理をするのが俺の仕事なのだから。
そう思うと責任の重さにブルッと震えたが、その重さが心地よかった。
俺の頑張りは全て彼のためになるのだから。
「今日疲れたから『わんにゃん動物園』みないと精神安定できない。ストレスで死んじゃう」
「それなら早く帰らないと!夕飯は鍋焼きうどんでいいですか?」
「うん。あと膝枕して耳掻きして。耳掃除しないと大事な話が聞こえない」
「はい!」
「それからエッチは三回ね。最初はオレがバター犬になるから。二回目はイルカがワンコね。三回目は獣のような激しいのシよ」
「え?いや、それは・・・」
「ダメ。三回しないと明日の会議ヤル気出ない。明日は大事な会議だから、精神的にも性欲的にもスッキリしてないと差し障るから!これもイルカしかできない大事な仕事だよ!」
「は、はい!」
俺しかできない大事な仕事。
その言葉は俺の自尊心と男して社会人としてのプライドを擽る言葉だった。
そうだ。大切な社長の体調管理なのだから、しっかりしないと。俺にしか、できないのだから。
「俺、頑張ります」
気合いを入れて鞄を持つと、車まで猛ダッシュした。勿論ワンコプレイにハマったカカシが三回などでは終わらず、イルカはカカシの精神安定のため次の日有給休暇をとった。
ピンチをチャンスに変え、そしてチャンスは死んでも離さない。それが経営者、畑カカシ。世間知らずのイルカが彼の真意に気づくことは・・・、ないのかもしれない。
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